●例えば、昔、人間になった猿とならなかった猿との違いは好奇心にあるみたいなことを言う人がいたけど、今ではそれは間違いと言われていて、進化はたんに突然変異と自然選択の結果で、突然変異した個体の変異がたまたま環境に適合的であった場合に生き残る確率が上がって、結果としてその遺伝子が増えるということの積み重ねとして進化が起こるということだ。つまりは偶発的なエラーが偶然上手くいったことの積み重ねだということに(今のところは)なっているようだ。
ならば、進化は進化する生物側の主体性や能動性とは関係なくて(進化のモチベーション、みたいな言い方は間違っていて、進化はモチベーションとは関係ないということになる)、しかし環境に依存するというだけでもなく(生物の進化によって環境も変化するから)、生物と環境との相互作用と言えて、それは大きくみれば生物を含めた環境全体が計算している(シミュレーションしている)とみることができる。人間に知性のようなものがあるとして、それは環境による計算の結果によって生まれたと言える。ならば例えば人間がもつ「科学」は、環境自身の自己言及であり、環境の自意識であるとも言える。それは、人間から生まれたとしても、人間が生み出したとは言えないかもしれない。
●複雑ネットワーク理論の解説本を読んでいるとよく出てくるのが、集団的な挙動を考える時、単純な行動原理しか持たないエージェントたちの集団によるシミュレーションが、とても複雑な行動原理を持つエージェントからなる集団の複雑な挙動をかなり正確に再現できるということだ。例えば、一人一人がそれぞれ違っていて、とても複雑な行動原理をもつはずの人間たちの集団の挙動が、きわめて画一的で単純な行動原理しか持たないように設定されたエージェントの集団によるシミュレーションでかなりよく再現できる。この時、人間たちがもつはずの多様性は、まさにその多様性同士が相殺し合うことで消えてしまった、というようにみえる。
●ならばこの多様性はまるっきり無駄なものなのかと言えば、おそらくそうではない。集合知と言われるものがある。例えば、イギリスの家畜見本市で、来場者にある一頭の雄牛の体重を推測させ、最も正解に近かった人に賞金を出すというコンテストが行われた時、すべての応募者の推測値を平均した値が、ほぼ正確にその牛の体重を当ててしまったという。このことの理由についての数学的な説明が『集合知とは何か』(西垣通)に書かれている(以下は、以前に書いた日記のコピペ)。
●N人のメンバーがある対象の数値を推測するとき、メンバーiの推測値をX(i)とする(i=1,2…N)。集団的推測値をAとすると、それは平均値なので、
A={X(1)+X(2)+…+X(N)}/N
となる。正解をRとすると、メンバーiによる判断の正解との誤差は(X(i)−R)²である。平均個人誤差は、
{(X(1)−R)²+(X(2)−R)²+…+(X(N)−R)²}/N
となって、この値は、メンバーの推測値が正解と平均してどのくらいズレているかを示す。
次に、メンバーの多様性を考える。多様性は推測値のバラツキで表され、統計学でいう分散値に対応する。それは次の式であらわされる。
{(X(1)−A)²+(X(2)−A)²+…+(X(N)−A)²}/N
で、「集合知」による推測の誤差(集団誤差)は、
(A−R)²
となる。集団誤差が小さいほど、N人のメンバーによる集合知は正しいということになる。これを計算すると、
集団誤差=平均個人誤差−分散値
となる。
(偽日記 2013/11/16よりコピペ)
●つまり、同質性が高い集団ではなく、一人一人がそれぞれバラバラな判断基準で判断する、多様性のある(雑多な)集団においてこそ、集合知は意味をもつ(信頼性の高い)ものとなる。しかしそのためには、最初にあった個々の判断の固有性は消されて平均化されるという手続きが必要となる。
まず多様性があり、それが均されることで一つの解が得られる。もう一方に、はじめから均されたエージェントによるシミュレーションから導かれる解がある。両者は極めて似ているとしても、そこにはいくらかの誤差があるだろう。その誤差が計算の精度(というか、複雑さの度合いの違い)ということだろうか。小さな誤差は、集積するとまったく予想外の動きとなる。とはいえ、両者に本質的違いはなく、後者は前者のモデルではありえる。
●しかしここから零れ落ちるのが、一人一人の個別の判断を生む、個々における感覚的な質であり、つまり「わたし」の喜びや痛みだ。これらはいったい、この世界のなかのどのような位置に居場所をもち得るというのか。「喜び」は、この世界のなかの「何処」に「ある」のか、どのようにして「ある」のか。おそらく、ぼくが興味があるのはそこだろうと思う。例えば、ある演算が実行される時、それに関わるコンピュータの演算チップの一つ一つが、このような個別の(わたしの)喜びや痛みをもたないと、なぜ言えるのか(これは「擬人化」ではなく逆向きの話で、演算チップも喜びをもつからこそ人も喜びを持ち得る、のかもしれない、ということ)。