2022/06/05

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2の七話から十話まで観た。三話ずつ区切って観ようと思っていたけど、九話の終わりのところでやめられなくて、続きを観てしまった。

江崎の復活によって、第四の流れが生じる。国から独立した「N」という集団をたちあげようとする二人のポストヒューマンと、自国の失敗を隠密裏に回収しようとするアメリカ、そして、日本が戦場になることを避けるために動く日本政府(公安九課)という三つの勢力が、がっちりと三つ巴になっている展開に、もう一本の独立した流れが、江崎の死と復活によって生まれる。たった一人の状態で復活した江崎が(死者は、墓場ではなく工場で復活する)、九課に再び合流するまでの「旅の過程」が別の経路となり、三つ巴の物語に膨らみをもたせる。

十話でなるほどと思ったのは、原子力潜水艦から放たれる核のボタンの権限を、ポストヒューマンの二人から、三百万人いるという「N」全員へと移譲するという展開だ。ここで重要なのは、三百万人の総意、あるいは合意が問題となるのではなく、三百万人の全員が核のスイッチをもつということ。つまり、三百万人のなかのたった一人が「GO!」と判断すれば核攻撃が行われる。ここで、この作品が、「Individual Eleven」や『東のエデン』から一貫している、ベタな言い方をすれば「民衆たちによる自己統治」の主題の展開なのだと分かる。

そして、思い出すのが、ゲーム理論の研究者である金子守が『地界で考える社会正義』という本に書いていた思考実験だ。金子守は、「すべての人が巨大水爆のスイッチをもつ」という状況、つまり、すべての人が等しく人類を絶滅させられるだけの力をもつ、という状況を考え、このような状況ではじめて、多様性と平等性が同時に成り立つ、というのだ。考えてみればその通りで、すべての人が等しく「人類絶滅の力」をもてば、人は誰一人としておろそかに扱われることがなくなるだろう。しかし問題は、このような状況はまったく持続可能ではなく、多様性と平等が実現したとたんに、人類は滅びるだろう。

攻殻のスタッフが金子守を読んだのかどうかはわからないが、全員が核のスイッチをもつという状況が出現する。しかしここで異なるのは、人類全員ではなく、「N」という集団に属するメンバー全員であるということ。そして、人類滅亡の力をもつのではなく、他国からの介入を阻止する程度の力であること。さらに、この「N」に集う人々は、「摩擦」を極端に嫌い、あらゆる意味での摩擦のない生活こそを(のみを)希求しているという、およそ「革命を目指すような人たち」とは真逆の性質をもっている(というより、おそらく「もたされている」だろう)ということだ(革命への志向を少しでも持ってしまっている人は「Nぽ」と呼ばれて厳しく排除される)。

彼らの核武装は、徹底的に非闘争的であるための防衛手段だといえる。原子力潜水艦は、自分たちの集団やメンバーに対して、少しでも摩擦や競争を要求してくる人々(結婚や就職を要求してくる親戚とか、意識高くあることを要求してくるインフルエンサー、そして革命を啓蒙しようとするインテリ、みたいな人々)が、集団を攻撃してきたり、圧をかけてきたり、集団に紛れ込んできてしまうのを防ぐための、ミニマムなセキュリティだろう。そして、もし仮に彼らが本当に、ただひたすら「摩擦や競争を嫌うだけの人たち」であるのならば、「全員が核のスイッチをもつ」状況が持続可能であり、かつ有効になる。自分たちに圧力がかからない限り、彼らには他人を攻撃するという欲望が芽生えないだろうから(たとえば、領土を拡張するとか、利益を成長させるとか、競争に勝つとか、考えないだろう)。彼らにとって問題は、摩擦を最小限にしたい人たちの集団をそれ以外から隔離した状態で存続させることだけだ。

おそらくこの物語そのものは、「摩擦や競争を嫌うだけの人たち」に対して完全には肯定的ではないだろう。なんなら、現代のそのような傾向に対する皮肉というニュアンスもあるのだろう。なんといってもエンタメ作品なので、常識的な着地が要請される。とはいえ、このような思考実験的状況を作り出すというだけで、相当に攻めた作品だと思う。