2023/01/26

吉本隆明のテクノロジーに対する態度について。檜垣立哉『日本近代思想論』第17章「吉本隆明によるテクノロジーと生」より、メモとして引用。ここで問題にされているのは「核」だが、おそらく核以上に人間にとって危険なものとなるだろうAIについて考えるための参考になるように思った。

(興味をもって『「反核」異論』を検索したが、今、Amazonマーケットプレイスでは品切れで買えないようだ。)

吉本隆明にはどこか明るい科学技術への信頼がある。》

《そうした吉本にとって、とはいえこの問題に深く関わるポイントともいえる問題がある。それは「核」についてである。》

《(『「反核」異論』における)吉本の主張は、テクノロジーと政治、あるいはより深くテクノロジーと人間の生に関する吉本の思考を検討する際におおきな意味をもつだろう。》

《『「反核」異論』でも、わずかではあるが「反原発派」に対する痛烈な批判を行っている。》

《何も吉本が核兵器の存在を、たとえ軍事バランスとしてであれ容認しているわけではまったくない。同様に、原発についても、原発を即時にすべてやめることは困難だろうと語りつつも、原発そのものを肯定しているわけではない。吉本が問うているのはそれらに反対する「反」という姿勢が内包する危うさにある。》

《吉本は、原発について、これから人類は危ない橋をとぼとぼと渡っていくしかないと述べている(『思想としての3・11』河出書房新社参照)。吉本は原発に対して賛成であるわけではない。だが吉本の思考のなかに、「反核」異論のときと同様に、核と放射能という自然エネルギーをとりだし操作可能にしてしまった人類そのものの課題をみていることは確かであろう。そしてその課題をみようとしないあらゆる運動を、吉本は批判しつづけるのである。》

《(…)中野孝次の宣言文自身や、それに同調する大江健三郎の文章などに顕著にみられる、一種の恐怖言説そのものも標的に挙げられる。当時の核爆弾は、そのすべてをひっくるめれば地球の人間を何回でも破壊しうる力をそなえていること、それが利用される危機が迫っていたことは確かだろう。だがそれが、この宣言や反核運動の正当性を支えるものとされるとき、それは「危機」を利用して反論を押し殺す言説でしかない。》

《(…)核物質の半減期が数万年におよび、それがはるか彼方にまで汚染をひきおこすという主張について、先の「SF的想像力」とほぼ同様のことが述べられている。「半減期が約二万年だから、約五万年も放射線が消えないプルトニウム廃棄物質にまみれて、あたかも糞尿に囲まれて生活するかのような妄想を、大衆に与えるほか、どんな意味もない」(『「反核」異論』四〇六頁)。ここからとりだされるのは倫理的反動だけであり、それでは「敗北主義的敗北」に陥るだけの運動しか構築できないと述べられる。これは「開明」によってでなく「迷蒙」によって「大衆のエネルギイ」を動員するだけのものだというのである。》

《では吉本が語る「開明」とは何か。それは、テクノロジーによって開発された宇宙エネルギーの解放は、それ自身の制御可能性も含め、テクノロジーによって対抗しうるよりほかはないという主張からとりだされるだろう。吉本は、核兵器の撤廃に対して、核を一度獲得したからにはそれに対するテクノロジーはすでに人類史に蓄積されており、これを「禁止」「廃棄」という理念で把握するのは、それが少数のテロリストによって利用できる限り不可能だと論じたことがある。》

《(…)終末イマージュそのものは人類にとって普遍的なものでさえある。人類史の水準で考えれば人類は必ず滅びるし、宇宙史のレヴェルでいえば地球はどこかでなくなる。時間を生きてきた人間はそのことを知っているし(宗教的イマージュを創設しえたことそのものがそれに通じるし)、人類史上・自然史上で核エネルギーを解放した人間の物質的条件は、あらたな仕方でそれに接近したものだといえる。》

《そこで核エネルギーそのものは自然物である。確かに人類はそれを解放した。それによって人類は滅びるかもしれない。だが人類は生物学的進化の必然で滅びるかもしれないし、たんなる気候変動で滅びるかもしれない。そこで根源的に「滅びる」ということを自然過程として捉えないで、人類がとりだした核のエネルギーを特権視する言葉は何を述べているのか。吉本のテクノロジーと自然への信は、時代の条件としてのこのプロセスだけを特別視することに向けられている。そこでみいだされるべきは、そもそも生誕して滅びていく自然過程のなかにあることへの信である。》

《敗北主義ならざるものとは、自然の核エネルギーの解放に対して、何ら否定しないことだ。逆説的にきこえるかもしれないが、吉本はこれだけが、人間が自然と巧くやっていく手段であると考えたとおもう。現在の原発問題についていえば、吉本は即座に原発の核エネルギーを拡散させないテクノロジーと、拡散した放射線の被害を緩和するテクノロジーを発見することに全力を傾けるのが人間の「とぼとぼ」歩くべき道だというだろう。同時に原子力よりはるかに廉価な自然エネルギーの解放を早急におこない、それを資本主義の理屈にのせて(つまり経済的に安く、ということだ)流通させる手段を確立することだけが、反原発運動を間違いないものにする手だてだというだろう。その方がよほど戯画的であるといわれるかもしれない。だが、自然と一体化しているわれわれのテクノロジーを敵とみなすことなく、むしろその奇妙奇天烈な解放力をことほぐ吉本にとって、それこそが人類のなしうることだということになる。》

●おそらく、AIの発達は人間を幸福にしない。できるのならば、その研究・開発はやめた方がいいと思うし、そのような潮流は世界的にも(特にヨーロッパで)広まりつつある。しかしそこで問題なのは、みんなで取り決めて「開発はしない」ということにしても、テクノロジーとして実在する限り、こっそりと研究・開発を行う「誰か」は絶対にでてくる。この場合、取り決めを破って研究をつづけた者が、取り決めを守っている者たちに対して様々な点で圧倒的な優位に立ち、守った者たちを支配することが可能になる。これを避け、力の均衡を保つためには、研究・開発を「やめることができない」ということになると思われる。そうであるならば、それを「肯定的なもの」とするように開発するしかないということになるのではないか。だがそれは、とても危うい、綱渡りのような道を行くということだ。