●「世界を救うのはエクスポネンシャルか、エクソダスか?──シンギュラリティ大学とカリフォルニアン・イデロギー再考」松島倫明(WIRED)
https://wired.jp/2017/12/18/exponential-or-exodus/
シリコンバレーのテック系のような、《テクノロジーのエクスポネンシャル(指数関数的)な成長によって、世界の最も困難な課題を一気に解決することをミッション》とするいわば「エクスポネンシャル派」の人たちと、エコロジー&ヒッピー系(あるいはアート系)のような、《世界中のエコヴィレッジインテンショナルコミュニティ(intentional community)のネットワーク》によって脱=資本主義化を推し進めようとする、いわば「エクソダス派」の人たちという、二つのまったく異なる(相容れないとさえ言える)思想のあいだで、「自由と反権威主義(リバタリアニズム)」というただ一つの一致点においてなされた「ふしだらな結合」(野合?)によって生じたのが、かつてのカリフォルニアイデオロギーだとすると、その両者が決定的に分離してしまったかのように見える今日に再び、その共通の課題を「自由と反権威主義」から、「グローバル・グランド・チャレンジ(エネルギー、環境、食、シェルター、宇宙、水といった資源の問題、そして災害へのレジリエンス、ガヴァナンス、健康、ラーニング、経済的繁栄と安全といった社会的資源の「地球規模」での問題解決)」への実践主義へと移行させることで、共働が可能になり、新たにアップデートした形での「カリフォルニアイデオロギー」が可能になるのではないか、という話が、上の記事で書かれている。
●すごく面白い話だけど、ぼくの個人的な感覚にすぎないが、「エクスポネンシャル派」の人と「エクソダス派」の人とでは、人としてのあり様がかなり異なるような気がするので、思想以前に、「馬が合わない」とか「なんとなく気にくわない」、あるいはそもそも「会話が成り立たない」という、非常に低レベルな人間的感情が邪魔になってしまって、人と人との関係のレベルでの共働はあまり上手くいかないような感じがする。気が合わない人と付き合うのは無理がある。以下に書かれているような問題(溝)はとても大きいように感じられる。
《エクスポネンシャルなテクノロジーによって人類の貧困や環境問題を一気に解決しようとする人々がいて、彼ら彼女らから見ると、人間性回帰を志すシンプルライフの類いは、個人としての救済や倫理的な満足としては結構かもしれないが、より大きなスケールで解決策を模索し社会に大きなインパクトを与えようとしない点で、しょせんは世界の現実から目を背けた世捨て人の生き方だと映る。》
《一方で『壊れた世界で“グッドライフ”を探して』に描かれているような人々は、経済格差と見知らぬ国の奴隷労働によって成り立つ企業や、環境を破壊し貴重な資源をめぐって戦争を始める政府には加担しないと決めている。そのために自給自足で石油も電気も自動車も使わないような生き方を選ぶ人々から見れば、シンギュラリタリアンのような人は、自分の特権やその生活こそが世界の貧困とか環境破壊の原因になっていることは棚に上げ、自分が1ミリも変わろうとしないまま世界を救うと言っている傲慢なエリート主義者にしか見えない。》
●ここに描かれる「エクスポネンシャル派」も「エクソダス派」も、相容れないとはいえどちらも「善意の人」には違いない。しかし、世の中にはかならず「すごく頭のいい悪い奴」が存在する。
●で、やはりそこはテクノロジーの力を借りて、人と人との接触をテクノロジーが上手いこと調整・媒介して、気の合う人同士の集団がそれぞれ自律的に活動しながら、孤独を好む人は一人でいるまま、最小限の接触によって効率的な共働を実現するとか(接触面には、それにふさわしいコミュニケーション能力の高い人を置くとか)、ケンカして関係を破壊しそうな人同士はうまく棲み分けるようにするとか、そういう形の関係のあり方がAIのマネジメントによって自動的にできるようになって、それが結果として共働的にグローバル・グランド・チャレンジを進める方に向かって動いていくような仕組みがつくれれば、それは可能性があるように思う。スマート・カリフォルニアイデオロギー的な。そのような意味では、エクソダス派は(少なくともインフラ的な意味では)エクスポネンシャル派に依存していると思う(エクソダス派も、思想的な深み、のような貢献は可能)。
あるいは、「既にエクスポネンシャル派/エクソダス派である人」たちには可能性がなくても、エクスポネンシャル的であり、かつエクソダス的でもあるという、新たな世代が育っているという可能性は充分にある。というか、ハッカー文化というのは、そもそも、そういうものなのではないか。というか、そういうひとに、わたしもなりたかった。
(でも、ハッカー的なリバタリアニズムというのは、生まれつきかなり頭がよい人にのみ可能な思想なんだと思う。)
●あと、この記事では触れられていないのが(チートや暴力を抑制するための)「暴力の/暴力による集中管理」の必要性という問題だ。普段、それは国家によってなされているが、ある運動が国家を超えようと---国家という枠組みから自律的になされようと---するならば、自前で(かつ、分散的に)それを行う必要が出てくる。
ブロックチェーン(あるいは、それよりもより高度化された分散技術)によって、政府や官僚組織の分散的代替(解体)は可能だとして、軍事力や警察力を「分散化」できるのか、というとても大きなハードルがあると思う。チートや暴力を抑制するためのメタ暴力(ホッブス的社会契約の問題)や、他者(集団)からの暴力的強制---たとえば国家による強制介入---に抵抗するための暴力(軍事力)を、持続可能で安定的な形で、かつ水平的に分散化(分散管理)可能にするための「具体的なイメージ(例えば、ゲーム理論の権威である金子守は「すべての人が核のボタンを所有する」ことではじめて力の平等---平等な拒否権---が実現する、というグロテスクな「暴力の分散管理」を思考実験として提示している)」を描くことは(ラブ&ピースが基本のカリフォルニアイデオロギーにはとりわけ)とても難しい。
●それと、いずれにしても、この記事に書かれている(人間の直観では捉えられない)エクスポネンシャルな感覚を意識的にもつことはとても重要だと思う。
《シンギュラリティの説明として有名な指数関数的グラフは、リニアな時間軸を生きる人間の感覚ではなかなか体感しにくい。たとえばぼくたちの歩幅が1mだとすれば、30歩で進む距離は30mだ。では1歩ごとに歩幅が倍になるとしたらどうだろう? 1歩目は1m、2歩目は2m、3歩目は4m進むとすると、30歩でどれぐらい進むか想像できるだろうか。答えは地球を26周だ。》
この感覚を持って、三歩目か四歩目くらいの段階で対策をとるように考えていかないと、知らぬ間に環境そのものがまるごと変わっていて、それに追従する(か、滅びるか)しかなくなってしまう。
●シンギュラリティへの危機を表明する人に対して、現状のAIはまだそんな段階には程遠いと言って嘲笑う人たちには、この感覚が欠けている(あるいは、分かった上で、政治的に嘘をついていると思う)。