●六日に、NHK-BSで放送したのを録画しておいた『ブンミおじさんの森』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)を観ながら、リヴェット、ゼロ年代後半のチェルフィッチユ、そして高橋洋などとの関係について考えていた。これらの(バラバラに思えるような)名前を関係づけるのは、パースペクティヴ主義的なフォーマリズムだろう。
(この映画を観ていて、死に向かって夜中に家を出たブンミさんたちの一行が、夜のジャングルから真っ暗な洞窟のなかへ入っていって、そこにある、外からの光のまったく届かないような洞窟の中に湧いている泉と、そこに群れを成す魚たちが、一行のもつライトによって一瞬照らし出されるカットを見たとき、ああ、このカット(イメージ)がこの映画の「反転」の軸になっているカットなのだろうな、と直感された。農園とジャングル、人と動物(水牛や猿)、現地人(タイ東北部)と移民(ラオス)、人と精霊、現在と過去(未来)、生と死、今世と来世(前世)、そしてジャングルの開放や豊穣と洞窟の閉ざされた闇と静寂など、様々な異質な視点の相互作用が、本来、闇の奥深くに隠されて顕現されることのないまま潜在している「洞窟の奥の泉の魚たち」の、偶発的な一瞬の開示によって、それが第三項=軸となることで反転的交差として実現する。このカットは、この映画の持続(時間)の外にあって、この映画で起こる出来事(様々な交錯)を支えているように思われた。逆に言えば、このカットは、様々な異質なものたちの交換によって生じた、とも言える。たとえば、女王とナマズとの「愛の交歓」の場面は、このカットがあることで、この映画の持続のうちに位置をもつ---この映画の他の場面との紐帯を得る。または、この交歓の場面の強引な接合が、潜在的な泉と魚を顕現させる。これは直観であって、そうだと言い切るためには、もっと細かく分析してみる必要があるのだが。)
(ラストシーンは、あきらかに高橋洋---特に『恐怖』や『おろち』---と通じていると思う。)