2022/03/28

●『トロピカル・マラディ』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)がYouTubeにあったので、こっそりと観た(ロシア語の字幕とナレーション付きのやつを、自動翻訳の日本語字幕をつけて観た)。本当に今更という感じだけどすごい。こんなにすごかったのかアピチャッポン。

(苦手とか言って本当に申し訳ない。『ブンミおじさんの森』のDVDも買った。)

前半の、ゲイのカップル(トンとケン)がひたすら楽しそうにイチャイチャしている(二人とも無茶苦茶笑ってる)パートもよいのだが、後半の、カップルの一方のケンが深く森に没入していくパートがとんでもなくすばらしい。映像と音響で(しかもYouTubeの画質も音質も鈍めのやつでも)こんなにも深く森に没入できるという驚き。

(熱帯地方であるために、あらゆる建築物が風通しよく開放的で、そのような空間のなかでカップルがひたすら開放的にイチャイチャする前半に対し、一人の兵士が、様々な感覚的密度でむせかえるような濃厚な森の奥深くに分け入っていく後半とのコントラスト。)

たとえば『地獄の黙示録』のマーティン・シーンが三時間の上映時間をかけて分け入っていくカンボジアのジャングルの深さと、『トロピカル・マラディ』の兵士が上映時間の後半の一時間をかけて没入していくタイの田舎の熱帯の森の深さとでは、物理的なスケールとしての「深さ」では『地獄の黙示録』のジャングルの方が圧倒的に深いだろう。しかし、映画を観ている観客の没入度でいえば『トロピカル・マラディ』の方が深い。というか、「深さ」の質が異なる。この深さは、物語の展開としての深さでも、ある種の隠喩的な深さでもなく、体感(感覚)的な深さだと言える。

登場人物である兵士と共に、観客もまた、感覚的に、どんどん森の奥深くへと入り込んでいく。そしてその最も深いところで、人が虎となり、虎が人となる。これは隠喩とかメッセージの類いではない。文字通り、人が虎なり、虎が人となるという出来事が起り得る、それを現実として受け入れてしまうような、そういう感覚的な状態に、映像と音声を通じて連れて行かれる。このような森のなかでは、確かに森の精と出会うこともあるだろうし、人が虎となることもあるだろう。この納得は物語的説得力によるものでも、隠喩的な説得力によるものでもない。

(YouTubeの荒い音と映像で、PCの27インチモニターで観たのだが、それでもそうなった。)

冒頭に、中島敦の「山月記」が引用されるが、この作品と中島敦的なものではない。「山月記」では、人は自尊心と屈辱によって虎となるが、『トロピカル・マラディ』の森の精としての虎(=人)は、そのような精神的なものとはあまり関係がない(虎に閉じ込められたシャーマンの伝承は、人間の精神について何かしらの寓意を語るものではない)。人は、森という環境に深く入り込み、環境のなかで、環境によって虎になる。ここで「森」とは、映像と音声との複雑な構築によって生み出される環境のことだが、勿論それは、実在する(映画の外の)森ともつながっているはずだ。この作品(映像と音声)は、タイの田舎にある森という実在する環境のモデル化であり、シミュレーションであろう。

(そしてこの作品は、E・ヴィヴェイロス・デ・カストロなどが主張するパースペクティブ主義の、感覚的実例とも言える。)