●初台のICCで「オープンスペース2016」、京橋の南天子画廊で岡崎乾二郎展、銀座のメゾンエルメスで「奥村雄樹による高橋尚愛」展。行き帰りの電車で、『奥村雄樹---ジュン・ヤン』(星野太)と『モノたちの宇宙』(スティーヴン・シャピロ)の序章と第四章を読んだ。
(実は、「オープンスペース」と「奥村による高橋」展には昨日も行ったのだった。昨日は、岡崎展は時間が間に合わなくて観られなかった。)
昨日は、オープンスペースで藤井直敬+GRINDER-MAN+evalaによるSRシステム(代替現実システム)の体験が出来なくて、でも、これはぜひとも体験したかった。で、今日やってみたのだけど、イマイチだった。現在のヘッドマウントディスプレイだと、映像の解像度があまり高くないのと、視野が狭い(視野の両端に「黒」がチラチラ見えてしまう)のとで、没入感があまりない。それに、自分の動きが制限され過ぎている(椅子に座ったままで視線を上下左右に振るくらいしか出来ない)ので、どうしても「観客」という意識になってしまう。没入感には、ある程度の能動性が必要なのだと思った。
ただ、映像に、白い服を着たいかにもダンサーといった感じの人が出てくるのではなく、受付にいた人と同じ人が同じ服で出てきたら、現実と映像との区別はまったくつかなくなると思った(「攻殻機動隊」の台詞で言う「眼を盗まれた」状態にあるのだから)。だから、実際に目の前にある現実(鏡に映った自分の像など)との微妙なズレだけをひたすら生成するようなシステムだったら、もっとずっと気持ちの悪い(つまり、リアルな)ものになったと思う。コンテンツをアトラクション的につくり過ぎているように思った。この装置の可能性はこっちの方向ではないのではないか、と。
それより、スティックを操作してスクリーン上の映像を見るという古典的なやり方を採用している谷口暁彦の作品(《私のようなもの/見ることについて》)の方が、人に疑似的な何かを体験させるやり方として、ずっと本質に近いように感じられた。
(谷口暁彦の作品と、エルメスの「奥村雄樹による高橋尚愛」との間には、重要な共鳴があるように感じた。)
谷口暁彦の作品では、ある仮想世界があり、その世界の窓となる二つのフレームがある。二つのフレームはどちらも主観的なもので、それぞれが仮想世界内にいる二人の谷口暁彦アバタ―の視点である。谷口アバタ―1は、自律的に動き、谷口アバタ―2は、観客がスティックを使って動かすことができる。つまり、一つの世界を、二人の谷口暁彦アバタ―を通じて経験することになる。
ただ、視点は二つとも主観的なものなので、観客=アバタ―2は、自分もまた谷口暁彦の姿をしていることを、アバタ―1の視界(フレーム1)に入った自分を見ることによって確認する(フレーム1を走り抜ける谷口暁彦の姿が見える)。この時、ふいに鏡に映り込んだ自分の像を見たかのような、あるいは、意識しないうちに自分が撮られていた映像を見た時に感じるような、自分の像に対する違和感が生じるとともに、それ=谷口アバタ―を、かなり強く「自分だ」という風に感じたのだった。これはかなり不思議な経験だった。つねに「ここ」であるはず「わたし」が、「そこ」に移動するような感覚。谷口アバタ―の方へと「わたし」が移行したという感覚。
「わたし」の位置が、ここからそこへと取り換え可能だという感覚を、「高橋尚愛としてインタビューを受ける奥村雄樹」の映像からも感じた。例えばこの映像で、高橋でもある奥村は、自分のある時期の作品のインスピレーションを、パリで買ったシャツの花柄のパターンから得たということを言う。そしてその時、その映像に映る奥村が着ている「力士がプリントされたシャツ」の、力士柄のプリント部分がクローズアップになる。つまりここで「花柄」は「力士柄」へと変換されて(置き換えられて)しまっているのだけど、それでも充分に(何の支障もなく)話は通じてしまう。同様に、高橋作品においては「赤いハンティングハット」であるはずのものが映像では「黒いキャップ」へと変換され、「ラウシェンバーグの遺灰の入った容器」であるはずのものが「小さな胃薬の瓶のようなもの」に変換されている。だが、それでも充分に話は通じる。このように、「語り」においてはどのような「モノ」も見立てによって入れ替え(代替)が可能であるという事実(このような事実がなければ、演劇やごっこ遊びは成り立たない)が、そもそも(日常=現実においても)「何かについて語る」ということを可能にしていると言える。つまりその原理が、本来、高橋がいる位置に奥村がいて、奥村が高橋として語るという出来事をも可能にしている。何かについて語るという場では、語る主体さえも代替可能である。語る主体さえも、語りのための小道具である。おそらく、主体は「記憶」であって、それを語る者ではない、と。
(この感じが、死と輪廻の匂いを軽く漂わせる。)
谷口作品では、アバタ―2が観客によって操作可能である(観客は能動性を感じている)こと。そして、アバタ―2の姿がアバタ―1の視点によって捉えられたということを、観客もまたもう一つのスクリーンで映像として「見ている」ということ。つまり、能動性(内的な感じ)と第三者性(外的な感じ)とが同時にたちあがっているという構造になっている。この二重構造こそが「そこ」に「わたし」がいる(「わたし」が「ここ」から離脱して位置を変える)という感じを強く惹起しているのではないかと思う。
「奥村による高橋」では、「花柄」と「力士柄」が、「高橋」と「奥村」が、位置を入れ替えることが可能であるという感じは強く出ているけど、でも、観客である「わたし」と「奥村」、「わたし」と「高橋」とが位置を交換可能であるという感じは、あくまで「知的な操作として納得できる」ということで、「そこにわたしがいる」という感覚を生むというわけではない。勿論、「知的な操作として納得できる」ことが「実感できる」ことより劣っていると言いたいのではない。
(「そこ」に「わたし」がいるという感じは、感情移入とは違う。感情移入は、そこをこことして、それをわたしとして経験するということだが、そうではなく、「わたし=ここ」が、「そこ」へと流れ出て行ってしまうという感じのこと。)