ICCの「オープンスペース2016 メディア・コンシャス」にある谷口暁彦の作品《私のようなもの/見ることについて》では、一つの仮想世界を観測する二つの主観的視点があり、一方は自動的、自律的に行動し、もう一方は観客がスティックを使って操作できる。そしてその二つの視点が所属する身体は、まったく同じ外見(3Dスキャンされた作者の身体)である。二つの視点は直交する二つの壁に投射される。
http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/something-similar-to-me-about-seeing-things/
「わたしの主観的視点」が「二つ」あるということが、とても重要であると思った。
自律的に動く視点=身体をアバター1、観客が操作するものをアバター2とする。昨日の日記では、自分が操作するアバター2の姿が、アバター1の視界にふい捉えられた瞬間に「そこ」に「わたし」がいると感じたということを書いた。この時は、自分が動かしているアバター2が内的な感覚で、自律的に移動するアバター1が第三者的な視点で、その両者を同時に、スティックを操作する観客である「わたし」が見ることで、「わたし」が「ここ」から「そこ」へと移動する感覚を得た。
しかし、常に自分が操作する方のアバター2が「内的」だと感じるというわけでもないようだ。
何度かこの作品を体験するうち、アバター2を、いろんなやり方で動かすことを試みた。まずは、アバター2が常にアバター1の視界の中に収まるように、アバター1の先回りをするようにアバター2を操作すること。この時に出来る限り、アバター2もまた、アバター1と同様に相手を見るようにする。すると、両方のスクリーン(視界)に、常に相手を見ている自分(谷口暁彦)が映っている状態になる。この時は、どちらが内的な視点でどちらが第三者的な視点なのかが、よく分からなくなる。操作がけっこう大変で、操作の方に気がとられてしまうから、ということもあるかもしれない。
次に、アバター2を、ここで現れている仮想世界の果て(限界)までまず走って行かせて、世界の最も周縁である部分から、遠くの、動いているアバター1を見てみる。この時、もう一方のスクリーンではアバター1の主観視点が展開されていて、観客である「わたし」はそれも同時に見ている。この場合は、むしろアバター1の自律的主観の方を内的だと感じ、自分が操作しているはずのアバター2の主観を第三者的なものと感じた。このような時、関わっている対象との距離が近い方を内的だと感じるのかもしれない。俯瞰に近い、遠くからの視線は第三者的に感じるのだろう。
あと、アバター2をアバター1の背後にまわらせ、アバター1に後ろから激突するように走ってゆくと、アバター2が、アバター1の体をすり抜けて、その前に出てしまう(この時、アバター1の視界にアバター2の後頭部がチラッと映る)。つまり、アバターはもう一人のアバタ―の身体に触れることができない。この、相手の(自分の)体のなかをすり抜ける感じがとても気持ち悪くて面白い。この時は、「わたし」はすり抜けているアバター2の方にあるようだ。
(書いていて気付いたのだが、アバター1の先回りをしてその進行方向に立てば、アバター1に「通り抜けられる」という経験が出来たかもしれないが、その場では思いつかなかった。)
アバター2を、アバター1の視界のなかで、くるくると回らせたり、一歩前、一後ろ、また一歩前、とかして踊るみたいにさせたりもした。この時は、アバター1の方の視界を見ながらアバター2を操作することになるので、操作している観客としての自分の位置に「わたし」がある感じになる。
最後に、アバター1の動きとはまったく関係なく、アバター2として勝手にこの「仮想世界」を散策した。ここではもはや関心は「わたし」ではなく「世界」の方にあるので、散策しているアバター2を操作する自分こそが「わたし」である。どうやらこの仮想世界では、石や木のなかも通り抜けられる(触れない)みたいだけど、壁には突き当たって先に行けないようだ。巨大な果物やケーキは、そのハリボテの裏側がちらっとだけ覗けた。
二つの主観があり、その二つの主観を同時に見る「わたし」がある時、場合によって、「わたし」の位置というか、「わたし」の配分がかなり変化するように思える。このような変化を体感できる装置として、この作品は面白いと思った。