2023/09/13

⚫︎かっこいい、あるいはカッコ悪いというのは、スキルやクオリティの問題ではなく、感覚の問題で、だから、スキルは高いのになんかカッコ悪いということは普通にあるし、決して上手じゃない、むしろヘタクソなのになんかかっこいいということも普通にある。それは言語化し難いし、わかる人にはわかるとしか言えないところがある。

故にそれ(感覚)は、排除や差別の印となりやすいし、そこまでいかなくとも、分断の根拠となりやすいという危険がある。

ただし、かっこいいというのは、美的な判断であると同時に、その美的なものの感覚が何かしらの、善なり、価値なりに結びついたときにいわれる。だから、そのあえてのカッコ悪さこそがかっこいい、ということが成り立つ。ここで「あえてのカッコ悪さ」がかっこいいというときの「あえて」が重要であり、そこでの距離の感覚が、「露悪的なもの(質の悪さ)」そのものへのアディクション、あるいは没入とは違うことを表している。

かっこいいとは、そのかっこよさ(美の感覚)そのものよりも、その美の感覚によって表されている価値観の方に重きがあり、それをかっこいいと言い、それかかっこいいと感じることこそが、自分がその価値観の信奉者であり、実践者であることを表現している。「わたしがかっこいい」と言えるとき、「わたし」はその価値観を実践している。

わたしがその価値観を信奉し、実践しているとき、それはナチュラルになされているのではなく、かっこよくあろうと努力し、無理をし、痩せ我慢をして、そのようにしている。痩せ我慢をしているということは、意識的にそれを行なっているということで、その痩せ我慢が価値への信奉の印であり、そこがアディクションや没入とは異なる。

この「痩せ我慢」という距離こそが「かっこいい」の批評性でもあり、また、その限界(弱さ)でもあるだろう。何かの只中にあり、そこに没入しているとき、かっこいいとかカッコ悪いとかいう価値観は無効になる。