2023/09/14

⚫︎『日本暗殺秘録』(中島貞夫)をU-NEXTで観た。この映画も『仁義なきヤクザ映画史』(伊藤彰彦)で言及されていたもの。《『日本暗殺秘録』は、存命だったデロ事件の実行者に取材し、それを実名で脚本に書き、全国百館以上の映画館で堂々と封切り、その結果、実行者に詳細な手記までも書かせ、テロリズムがなんたるかということを世間に知らしめた唯一無二の日本映画と言える》。《この作品は当時、ヒットしたばかりか、のちに「一水会」を創設した鈴木邦夫を始めとする行動主義の新右翼活動家にとってバイブルとなった》。

暴力描写というか、人を殺す描写がかなりエグくて、あからさまに政治的であり、そしてテロリズムを肯定するとも取れるような作品。こういう映画が娯楽作品として普通に公開され、かなりヒットした六十年代末は、今とはかなり違う時代だったのだなあと感じる。とはいえ、こういうものが自由に作れたということでもなく、『仁義なきヤクザ映画史』を読むと、ヤクザ映画や右派テロリスト映画を作るとき、映画会社とヤクザ、警察、政治家などとの密なつながりがあるなかで、ヤクザや警察や政治家から様々な圧力や妨害を(あるいは協力を)受け、それに対して抵抗したり妥協したりしつつ、それらの力の押し合いへし合いの中から、その都度の結果として、一つ一つの作品がそのような形として出てくる、ということであるようだ。完全に表現の自由があるわけではなく、かいって、力関係の中でなあなあでやっていくのでもなく、権力があり、抵抗があり、反骨心があり、しかし現実問題として妥協もあり、敗北もある。そのような力のせめぎ合いから作品が形になる。

幕末の「桜田門外の変」から、昭和の二・二六事件まで、複数の「暗殺事件」を通過していく作品だが、芯となるのは「血盟団事件」で、「百姓が食えないと言って野垂れ死したことはない、百姓の干物は見たことがない」と発言した元蔵相の井上準之助を殺した小沼正(千葉真一)と、その師匠の井上日召(片岡千恵蔵)が中心になる。小沼(千葉真一)がなぜ、どのような必然性で暗殺者となったのかという、その過程を詳細に描くことに映画の八割くらいが費やされている。若山富三郎高倉健鶴田浩二なども出演するオールスター映画だが、彼らは顔見せ的に作品を通り抜ける感じだ(ただ、鶴田浩二はけっこう重要な役だが)。

井上日召(片岡千恵蔵)の周りに集っているのは、ほとんどエリート軍人や学歴の高そうな人たちだが、小沼(千葉真一)は義務教育が終わるとすぐ働きに出ざるを得ないような環境にあり、庶民たちが理不尽に踏み躙られるさまを目の当たりにし、かつ、自分自身が踏み躙られてきた者であるという点で異質であり、彼の存在が、革命(暗殺)の必要性=根拠(この社会のありよう)と、革命を志す者たちのありよう(どんな人たちが、どんな志で、どんな方法をもって、それをするのか)とを結びつける。この二つが結びついていることが、おそらく「右翼的心性」に強く揺さぶるのではないか。

彼らの志は革命の発火点となることであり、自ら積極的にそのために捨て石となるところにある。だから彼らは下剋上を狙う者(革命が成功すれば、自分たちが権力を持つことができると考える者)を強く軽蔑する。利己でも利他でもない。義のために己を捧げる。映画を観ながら、自分はどうやっても右翼にはなれないかなあと思いつつ、心を動かされるものはある。

(「自ら積極的に捨て石となる」という心性は美しいが、簡単に悪い奴に利用されちゃうんだよなあ、とも思う。自分はどんな場合にでも決して「捨て石」になどなる気がない奴らが、そのような「美談」を利用して人を食い物にする。「美談」はいつも、思考停止と他者の搾取と結びつくから嫌いだ。)

⚫︎この映画と現代の価値観との最も大きな違いは、「どんな場合でも命が大切」とは決して言わないところだろう。どんなに悪人であっても殺す(殺される)べきではない、ということはない。おそらく「人の命」が今よりも軽い。これは人権意識の欠如とも言えるかもしれない。だが、「人の命の重さ」をどれくらいと考えるのが良いのかという問いは、簡単には答えが出ない。