⚫︎『仁義の墓場』(深作欣二)を改めてU-NEXTで観た。こんなものをよく作ったものだと思う。自分自身を含め、自分に関わった人全てを不幸にする最悪の人物の映画。救いもなく、カタルシスもなく、教訓もなく、共感もない。ただ、ひたすら、運命のように最悪であり続ける人物。トーンは全く異なるがブレッソンの『ラルジャン』のようで、娯楽映画になりようがないように見える。
だが、『仁義なきヤクザ映画史』を書いた伊藤彰彦は、保坂和志のとトークで、実際にヤクザに影響を与えたヤクザ映画は圧倒的に定型的な任侠映画で、実録シリーズはヤクザにはあまり影響を与えていない(つまり、実際にヤクザになった人が、この映画を観てヤクザになろうと思ったという「動機」にかかわっていない)が、実録シリーズの中でただ『仁義の墓場』だけは、これを観てヤクザになろうと思ったという人が一定数いると言っていた。つまり、この映画の渡哲也に「共感」した人がいるということだ。
自分自身でさえ、自分をどうすることもできず、必ず、現状で取り得る中で最悪の道を行ってしまう自分の様を、ただどうしようもなく自分自身でみているしかないという、荒みきった絶望の感覚を、「ああ、これこそが自分だ」と感じる人がいるということだろうか。懲りることがないというだけでなく、意気消沈することもなく、(後半になって薬物に手を出す前は)常に元気ではあり続けるので、最悪の上に、さらに何度でも最悪を塗り重ねてしまう。だが、決してイケイケというのでもなく、「自棄になっている」がデフォルトモードになってしまっていて、そうであるしかない自分を持て余し、絶望し、あるいは諦めを感じている。「自棄になっていること」を自覚しつつ、「そうでしかあり得ない」というどうしようもなさ(自己操作の不能性)の中で途方に暮れつつ存在するという感触。
将来を見越した計画とか、策略のようなものが一切なく、ただ現在の中にのみ存在し、その場での衝動と欲望と直感的判断に従い、自分自身に対してさえ自分の行動の理由を説明できないだろう。「兄弟」である梅宮辰夫には、「将来」があり「計画」があって、故にヤクザ社会のしがらみの中に取り込まれていく(それが「いっぱしの者になる」ということだろう)が、渡哲也にはそれが「裏切り(あるいは堕落)」に見える。
自己操作不可能性の中で途方に暮れつつ、自分の中にある衝動(というか、なにか動くもの)により行動を止める(立ち止まる)こともできないというどうしようもなさ。この映画の渡哲也に「共感する」としたら、そのような感触に共感するしかないのではないか。
(いわゆる任侠モノの高倉健ならわかるが、とても共感が難しいこの映画の渡哲也の「仕草」が、それでもしばしば観客に感染してしまうとしたら、その感染力は「共感」とは別の何かによるものであるだろう。)