●『ちーちゃんはちょっと足りない』(阿部共実)を読んだ。「よつばと!」かと思って読んでいたら実は「エヴァ旧劇版」だった、と。とても重要な問題を掘り出すことに成功していながら、そこを追究するよりも読者に対するショックの強さを優先させてしまっているのではないかという感じをもった。とはいえ、興味深い。以下、ネタバレしています。
ちーちゃんは子供であり、子供には共感や愛はあっても倫理はない(共感は生得的でも倫理は教育される)。だから彼女は、大切な友人がお金を欲しがっているのを知って、友人のためにお金を盗む。そして結果として、友人(ナツ)のためを思ってしたその行為が友人を追い詰めることになる。ちーちゃんの行為はただ(最も大切なはずの)ナツだけを関係のなかから排斥して孤立させ、ナツだけに不利に働いてしまうことになる。
ちーちゃんがお金を盗んだという行為は、結果として、反目し合っていた旭たちと藤岡たちの関係を結びつけるきっかけとなり、ちーちゃん自身にとっても、藤岡によって「盗みは悪いことだ」という倫理的教育を(とても良いかたちで)受けるきっかけとなる(ちーちゃんはちゃんと、盗んだお金を返すために努力するようになる)。お金を盗むという行為は悪いことだとしても、その行為の結果は、ナツ以外のすべての人にとって「よい変化」をもたらすものだった。その意味で、ちーちゃんは善悪の彼岸にいて他者たちの関係を取り持つトリックスターのような存在である。
ナツは、ちーちゃんが差し出した、明らかに盗んだものだと分かるお金を、その行為をとがめることもなく受け取ってしまう(しかも中途半端に三分の一だけ受け取る)。ここでナツは、後に旭や藤岡がそうしたように(子供である)ちーちゃんに「盗みはいけない」と諭すこともできたはずだ。藤岡にそれが出来てナツにできなかったのは、お金の欠乏が原因であるより、関係の欠乏が原因であると思われる。親が自営業で忙しい藤岡は、普段から幼い妹たちの世話をしなければならず、(ちーちゃんと同様である)子供たちとの関係(叱ったり諭したり)に慣れていたはずだ。対してナツは母と二人暮らしであるらしく、交友範囲も広くない。また、旭や藤岡にとってちーちゃんは、同級生であっても「子供」であるが、ナツにとっては対等な「友人」であり、ちーちゃんの行為は倫理を欠く子供の(叱ってあげるべき)行為ではなく、「共犯」であることを強いるような行為としてあったはずだ。あらかじめ倫理を欠いている子供の行為を、ナツは、(愛情によって)意思的に倫理を破った行為として受け取らざるをえなかった。
ナツと同様に、藤岡の家も決して裕福とは言えなさそうだが、妹たちだけでなく友人も多そうな藤岡は「関係」においては豊かであると言える。対して、「箸の持ち方」の場面に顕著にあらわれているように、ナツにとって「関係」こそが欠乏している。ナツには、母との関係とちーちゃんとの関係があるばかりで、それ以外の友人とは、ちーちゃんを中継点として繋がっている。この、関係の貧しさによるちーちゃんへの強い依存が、共犯関係の否定を難しくしてもいるだろう。
ナツにとっての不幸は、「お金を盗む」という行為の評価に対する、ちーちゃんとナツとの間に大きな食い違いがあったことだ。ちーちゃんは「叱られる」までそれを悪い事とは思っていないが、ナツにとっては大きな罪悪感としてのしかかってくる。もともと罪悪感に苛まれていたであろうところに、そのお金で買った「リボン」への周囲の無関心が、罪悪感による自己への攻撃をいっそう強いものにし、ナツは自己否定のループに陥る。
ちーちゃんには、倫理はないが仁義はあるので、盗んだお金をナツに渡したことは決して人に言わない。しかし客観的に状況をみれば周囲の人にはナツに渡したことなどバレバレであろう。この事実は、周囲の人物の(ナツを庇うちーちゃんに比べ、黙ったままでいる)ナツへの厳しい評価につながり、ナツにとっては、ちーちゃんが裏切って喋ったのではないかという不信感につながる。ちーちゃんの(黙秘という)行為はここでも裏目に出て、ナツにとって不利な方へと働く。
こうした状況のすべてが、神が(作者が)ナツを陥れるために仕組んだかのように、ナツにとっては偶発的な不幸が重なっている。しかし、このような状況は、ナツに、自分にとっての問題が(この窮状の原因が)「関係の欠乏」にこそあるという自覚を得るチャンスでもあった(勿論、関係の欠乏は、お金の欠乏以上に、そう簡単に何とかなるものではないが)。
でもこの作品では、罪悪感、自己への強い否定的評価、ちーちゃんへの不信、絶望、という流れが、再び、ちーちゃんとの強い依存関係の復活によって回収されるという終わり方をしている。しかも、ちーちゃんを中継点として他の友人たちへと関係を広げてゆくという経路を絶つ形で、より閉ざされた二人の共依存関係へと発展してゆく道筋がみえるように終わる。ちーちゃんの「仁義」は、旭や藤岡たちとの関係を切ってナツに着くという方向に働くだろう。
ここには、ナツは結局、今後もちーちゃんとの強い依存関係(「関係」の欠乏)のなかで生きるしかなく、それはナツだけでなくちーちゃんにとっても避けがたいという強いペシミズムがある。関係の貧しい者たちは、関係の豊かな者たちから切り離されてゆく(それは経済的な「貧しさ」を伴うだろう)。現状では、そのペシミズムを否定できるような要素は見つからない、ということか。