●『ORIGINALITY』『ララバイ』(柏田洋平)をDVDで観た。フィルモグラフィ(http://www.y-kashiwada.com/works.html)をみると、初期は普通に女性の出て来る映画もつくっていたみたいだけど、最近作の『ORIGINALITY』、『ララバイ』、『ヒネモステ』では、女性の影がまったくない。ここまで、被写体としての女性に興味のない映画作家はかなり珍しいのではないだろうか(スタッフには女性の名前があったりするけど)。この徹底ぶりが面白い。
●『ヒネモステ』(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090119)が、その場面場面ごとの、そこで行われている具体的な運動-行為がつくる時間の充実によって成立している映画だとすると、『ORIGINALITY』は編集によってはじめて成立する映画で、時間を前後させたり、複数の場面を重ねたりズラしたりすることで、それぞれのパートの間に意外な「関係」がたちあがってくる。三つのパートがあり、それぞれのパートにはあらかじめ仕込まれた構造的関係が一応あるのだが、それは希薄で、むしろ、そのような各パート間の(メタ的な)関係ではなく、それぞれのパート内での、具体的な編集の作業のなかで掴まれたと思われる、反復やズレや短絡の感触こそが面白い。例えば、それ自体はなんでもない細部が、時間的な前後が逆になったり、映像と音声との時間がずれ込んだり、あるいは、別の日の出来事が並列的に並べられたりして、その時系列の混乱によっていったん物語的な意味関連から切り離されて、しかしその混乱のなかで改めて、細部同士の別の関連性がみえてくる。そこで映画の時間やリズムは、その場面、そのカットに内在しているというよりも、それを観ている観客がその関連性(や意味)に「気づいてゆく」発見のリズムによって、たちあがる感じだ。あるいは、あるパートから別のパートへ、ある時間から別の時間へ、あるカットから別のカットへと、「移行してゆく」その移行のリズムが時間を刻む。
『ララバイ』はおそらくその中間に位置するような作品だと思った。『ララバイ』にも複数のパートがあり、それが編集によって混ぜ合わされているのだが、それぞれのパート間の関係は『ORIGINALITY』よりもゆるい感じになり、個々の場面の独立性が強くなっているように思われた。同時に、個々の場面の不条理性というか、物語でもないけど日常の出来事でもない奇妙なナンセンスの感覚が浮上している。作品としては『ORIGINALITY』の方がよく出来ていて、決して上手くいっているとは思えないのだが、ぼくには『ララバイ』がとても面白かった。『ララバイ』から感じられる手触り感のようなものに、作家としての柏田洋平の資質が現れているのではないかと感じられた。おそらく『ヒネモステ』では抑制されていたのであろうと思われるノイズが全編に満ちていて、この、ちょっと「壊れた」感じの感触というか、日常的な関係や行為がそのまま別の場所へとずれてゆく感覚が、もっと追求されると面白いんじゃないかと思った。
●『ヒネモステ』は、徹底して具体的であることによってある抽象性に達するような映画だと思った。ある具体的な風景-地形のなかで、複数の人物たちが、具体的に何かをする。ただそのことだけが描写され、どこかで誰かが何かをする、その時間がたちあがる。具体的に目に見える風景-地形は、実際にそれがある場所-位置から切りはなされ、具体的に行為する人物(目覚め、歩き、盗み、走り、火を焚き、飯を喰う、等々)の行為は、物語的、意味的な因果関係から切り離される。これといった物語が「なく」、なにも「ない」時間が流れるのではなく、具体的な風景がびっしりと「あり」、そこで具体的で様々な運動や行為の描写が「あ」って、その運動-行為そのもののリズムによって、時間が生まれる。そしてこの映画では、例えば風景-地形としての山と湖と海との間の位置関係が不明で、バラバラにあって唐突に繋がるので、その繋がりに(地図的な)根拠がない。それと同様に、登場人物たちにも(映画のはじまる以前での)関係はなく、それぞれバラバラに存在し、たまたま映画のなかで出会っているに過ぎない。
そのような意味では、例えば『ORIGINALITY』で、絵を描こうとする人たちのパートと、映画を撮ろうとしている人たちのパートとが、一本の映画として同時に示される、物語的・意味的な必然性は(たんに一人の登場人物を共有しているという以外には)事前にはきわめて希薄で、ただこの二つのパートの関係は、「この映画の上」だけのもので、この映画のモンタージュ(この映画が結果的にこのように編集されたという事実)だけしかそれを根拠づけるものがない、という点と共通しているように思う。「この映画」の成立という一回的な出来事の無根拠な根拠に、関係のあり様が賭けられている。非常に具体的で、作家自身に近い身の回りの人物(関係)や出来事、空間が素材とされつつ、その映画自身はきわめて抽象性が高い。
つまり、この三本の映画のどの登場人物も、どの出来事も、彼らの関係は映画で描写されることが全てであり、映画の持続によってのみ辛うじて保たれているかのようだ(ただ、『ORIGINALITY』と『ララバイ』では、同一のパート内の人物たちには既に親しい関係があり、その親しさによってパートや場面が支えられているが、『ヒネモステ』では、それぞれのパートではなく、それぞれの登場人物たちが既に現実的諸関係から切り離されて孤立している、という点が異なるのだが)。ここに、何というか、柏田洋平という作家の独自の感触があるのではないだろうか。
●冒頭にも書いたが、これらの映画には、作家と同年代の、おそらく実際にも親しい関係にあると思われる、同性の友人たちしか出て来ない。それは確かに、とても狭い世界の関係であり出来事であろう。その点を批判するのは簡単だけど、そのことによって可能になっている別の何かがあることは確かであり、何の疑問もなく、映画であるのだから当然とばかりに、「女優」に、「子役」に、「俳優」に、カメラを向け、突然「物語」を語り出してしまうような映画には決してみられない探求がある。
●あと、『ララバイ』では、カメラを操作する人としての柏田洋平の対象への迫り方の感触が、かなりダイレクトに、生々しく出ている気がした。監督作ではなく撮影のみを担当している作品でも、端正なフレーミングがある一方で、時々、対象に「ぬっ」という感じで近づく時があり、その接近の感触があまり抑制されることなく出ているというのか。
それと、『ORIGINALITY』でも『ララバイ』でも、一つの空間に人物が三人いる場面がとても面白いと思った。