●本棚から久々に「GS」(ゴダールスペシャル)を取り出してパラパラみていたら、樫村晴香の文章(「革命の諸要素」)が載っていて、しばらく、没入して読み込んでしまった。この文章はゴタールについて(ゴダールをめぐって)書かれている。ぼくが知る限りで、ゴダールについての最も明解な言葉のひとつだと思う。以下は、引用。
《あるいは、すべての役者が観客であることの権利を保ちつつ、ひとつの劇の中で、ひとつずつ舞台の配置がずらされた、無数の劇が一度に演じられること。じっさい、ひとつの世界は、その平明な神話とは反対に、内部に存在する無数の外部-神を消費している。》
《そのためには、あらかじめ存在する真理のただ中にありながら、ある特権的な仕方でそこから見はなされた現実、絶対的な過少の場を知らねばならない。それは、形而上学が与える威嚇としての「根底の不在」、資本主義が与える暴力としての「欠如からの絶えざる逃亡」を、自ら自分自身に与えつづけ、かすかに震動し、権力の平面から逃れているような点である。》
《ここは、一般的に論ずることが不可能な地点だが、しかしまたしても、ある種の「愛」として、私たちはそれを知るだろう。それは常に新しい形而上学が始まりつつ、自らに回収される場所であり、ただひとつの舞台に統合された力の、新しい結節点として、ことばとしてではなく、現実の世界にたたずんでいる。》
《そのとき愛は客体の側にある。たとえば「テーブルクロスの白い布地、窓ガラスの向う側」。だからそれは、存在に何も与えず、何も受けとらない。それは語ることからのがれるゆえに、支配されず、そしていかなる力もまた持たない。それは世界に何もつけ加えない。》
《だが、そこにはそれ自身に向けられた、中和された運動がある。それは自らについて語ることを世界に求めないが、自らを完全に支配している、世界に対する特権的な無知である。》
《ことばから組み立てられる主体において、人は自らの欠如を永久に譲渡しようとして、その根拠の不在(譲渡の回路)を真理に譲り、逆にそれにおびやかされる。愛はその不在を自らにかかえつづけるゆえに、ことばはそこに立ち帰ることによって、欠如を互いに交換しつつも、その交換の真理の不在を自ら引き受けることができ、またそうせざるを得ない。それは唯一の観客としての権力の作用を中断させる。》
《固有の場を持たない力、帰還する回路を持たない代置---抑圧の流れ、単なる余剰でしかなかったことばの反復は、愛の寡黙な空間を通過する時、一瞬その権利を回復する。》
《愛と余分なことば。ことばは、包含し抑圧しつづける力の流れだが、実際の対話において、その終わりなさ、不可能性を他者にも見ることにより、不可能性そのものにおいて鏡像的な共犯を結び、自らを真理とする。愛は、あるいは現実は、そのことばを欠いた共犯であり、余分なことばは、共犯を欠いたヒステリックな力の流れだ。両者を間歇的に出会わせること、しかし決して出会わせすぎないこと。また同時に、絶対に出会わせないことによって、不可能性そのものを独立した審級にし、そこにおいて不可能という共同体をも作らないこと。》
(引用はここまで)
●言葉=主体は、自らの欠如(根拠の不在)を、実際の対話の場において他者(のイメージ)の側にも見出し、その鏡像的共犯性によって、その共犯-愛そのものを、真理の不在(意味の不可能)の場に置き、その不在を(真理として)引き受ける(真理の共有ではなく、真理の不在の共有としての「愛」を「真理の場に置く」)。それによって一瞬、主体=言葉は、真理によって抑圧された力の流れではなく、《固有の場を持たない力、帰還する回路を持たない代置》と成り得る権利を得る。ここで対話の言葉は真理(根拠)の重力を逃れ、意味を逃れ、断片化し、冗長化された、たんに過剰に反復するものとなるとともに、(《愛の寡黙な空間を通過する》ことで)それ以上の何かになる。
この時、他者とは、客体としての他者のイメージであり、愛とはつまり、他者のイメージそのもののことだとすれば、それ自体として自足した物質-イメージ(《たとえば「テーブルクロスの白い布地、窓ガラスの向う側」》)もまた、愛の対象であるとともに愛そのものとなり、つまり「真理(根拠)の不在としての真理」と成り得るのだろうか。物質-イメージは自らに対し自足的に存在し、その根拠を自らに問うこともなく、根拠の不在をそもそも問題としない。つまりその自己充足(への愛)は根拠の不在を支えうる。とはいえそれは、物質-イメージは他者-イメージと異なり、自らを語る言葉を必要とせず、自ら語り出すことはない(《それは世界に何もつけ加えない》)ということでもある。自ら語ることのない沈黙する物質-イメージは、ラカン的な意味での、主体を代替する(表現する、固定する)「もの」という位置に落ち着きかねない。つまり、愛とは、他者のイメージというだけではなく、他者のイメージと他者の言葉だったのだ。
このような、自らを語ることのない「愛(物質-イメージ)」と、「余分なことばの反復-ヒステリックな力」とを《間歇的に出会わせること、しかし決して出会わせすぎないこと》、それによって、その実践の生むその都度の危うい交錯(短絡回路-モンタージュ)によって、物質-イメージにも、他者-イメージと同等の位置を、つまり自足したイメージであると共に「語る」ものとしての位置を与え(それはある意味「欠如」を与えることにもなるかも知れないのだが)、「真理の不在としての真理」としての「愛」となり得る資格を与え、その断片的イメージを、その反復する余分な言葉を、《愛の寡黙な空間を通過し》た、それ以上の何ものかに変質させようという賭けが、ゴダールの実践なのではないだろうか。