●引用。メモ。「Quid? ソレハ何カ 私ハ何カ」(樫村晴香)より。何度読んでも凄い。重要なのは、こういうことだけだ。
楳図かずおの異様に美しい女性たちは、力強く、能動的で、敵意に満ち、欲望のヒステリー的断念の帰結として、世界の外に立つ視線をもつ。(略)しかしそれ が本質的に指弾するのは、欲望、あるいは人生、という欺瞞であり、人間の誕生、人類の誕生、そして人類の存在そのものという「欺瞞」である。》
《そして他方、男性は、欲望の欺瞞や禁圧ではなく、欲望そのものの不能の中で、愛と人生を指弾するヒステリー的身体に、目を見開かされ、釘付けとなり、停止した時間と身体の中で剥奪される。剥奪する女性の身体が人生という欺瞞を指弾するとき、隷属する男性の視線が直面するのは、本質的には自らの誕生とい う、単なる性的外傷の彼方の、存在の最奥の外傷である。自らの生誕、自らの存在ほど、人間にとって、自らの意にならないものはない。その意にならないものが、外傷的視覚として到来し、その外傷的瞬間としてのみ、自らの存在が可能となる。》
《それゆえ美しい異界の女性たちが腐乱し始める瞬間にある死の現前とは、客体=身体の死である以上に、自らの意の許にはない自己の存在の発生の現場であり、時間の中に登記されず、操作不能な情景として留まり、不在からの出口であると共に死への入り口として停止した、外傷としての自らの誕生の現前である。そして存在のこの視覚的、外傷的、瞬間的な局面は、たとえ能動的、象徴的に時間の中に登記されようと、結局の所は自らの意のままになどなりはしない、自己の存在、あるいは人類という出来事、『14歳』で仮借なく描かれている人類の生誕と滅亡の、恐怖症的な隠喩とも言えるだろう。怪異な女性たちの語るヒステリー的な敵意と悲痛は、自己の存在に直面させられ、それに対し為す術のない、主体・男性の側の悲痛の代弁であり、翻訳である。『おろち・姉妹』のような優れた作品で、女性は自らの美し さに異様に執着するが、それは同時に、今この瞬間への異様な執着と、時間そのものの拒否である。それは男性に対する受動的欲望対象としての身体の老衰への、単なる恐れなどではない。時間を拒否し、この瞬間に留まろうとするのは、転移の力動を欠き、歓びと身体への登記を欠いた、世界の外傷的・視覚的出現としてある限りの自己の誕生、自己存在 という「現実的なもの」(≒恐怖症的対象)であり、さらには身体に登記され受動的視覚から離陸したとしても、結局は操作不能なものとしてあるしかない人間存在への、冷静な認識をもつ、「象徴的な主体」(≒ヒステリー的主体)である。》
《そして「人間とは何なのか、私はどこからやって来たのか」という問いも、それが昼の明るい陽射しの下で声高に問われるなら、やはり精神科の管轄に所属する。しかしそれが昼の陽射しと生産と交換の最中でなく、夕暮れから夜の時間に、声になるわずか手前の喉元で出されるなら、人がそれを発するのを誰も聞いたことがないのに、人がそれを発しているのを誰もが知っている、ありふれた問いとして、今日でもなお存在する。》
《一日の仕事の後、郊外電車が地下から地上に上がり、群青色から黒に変わりつつある空に高層住宅群の明かりが浮かぶのを目にしながら、曖昧な意識と疲労の中で、人は「私は何なのか。私は何をしているのか」と問いかける。あるいは夜空に帯状に広がる無数の銀河系の星を前に、高揚と空虚が同居する気分の中で、人は「人間とは何なのか」と問いかける。》
《「机は何か、コップは何か」という問いかけが馬鹿げていても、「私は何か」「人間は何か」が可能なのは、それが「問いかけること」の祖型、いわば原‐問いかけであり、そこで問われているのは問いかけの行為そのものであり、そこには世界の分節と言語の手前で、原初的他者に向かおうとする力動が刻印されているからだ。「私は何か」は、発声が言葉と意識に変わる最初の場所の痕跡だが、それは同時に声が向かい、探し求めた最初の他者の痕跡でもある。そして「私は何か」が意識の中へと再び現れ、主体の「今」に回帰する時、その他者は墓標となり、遺跡となり、絶対他者の彫像のように、その問いの受け手となる。》
《しかし、いずれにしても、その問いは言葉から現れながら、その起源を言葉の中にもたないので、「私は何か」は視覚と意識の間を曖昧に揺れ動く。「私は何か」は舌の上で反芻されつつ、意識は窓の外へと逃げていく。その問いが「意味するもの」、その中身、あるいは答は、高層建築群であり、街路樹であり、少女の姿であり、星雲である。声と視覚が通常の意味作用のようにはつながらない限りで、この問いは延命し、答を探し、やがては自分を忘れ、消えていく。「私は何か」は原初的他者に向かう高揚感、満足感と、その他者に出会わなかった失望と共に、多くの場合は、私の意味、私の無意味、私の価値、私の役割、その不在という、自我に関わる表層的・ 日常的意識の中へ、去勢され帰っていく。》
《今日これらのこと、「私は何か」のメカニズムを、人々は概略知っている。それゆえ人は、この問いを問い詰めない。もし人が「私は何か」を自我の意味へと去勢せず、しかもそれをあくまで言語と意識の中に留めおくなら、神話が再来し輪廻が始まることになるだろう。そこでは世界が到来し、目に入りこみ、私となる瞬間が、多形倒錯的・退行的に保存されつつ、他方で全ての意味作用はその瞬間に回付され、認識から解き放たれ、最終的に「私はどこにもいる」が意識の中 で造形される。原初的視覚と原初的他者は、カメレオンを変態させる森の緑のように実体化され、意識と時間の中に侵入し、「私は常に生成する」という感覚、「私はどこにでも生起する」という声となり、それが自我を飛び越え、認識を眠らせ、世界の中の自我である「この私」の、死の問題、あるいは世界の中の自我と自我との相克である、善悪の問題を抹消する。》