2021-01-15

●引用、メモ。樫村晴香「人間-でないもの」(「群像」2月号)より。今回はキューブリックタルコフスキーの作品を題材としているので、ぼくには割合と入りやすかったし、腑に落ちやすかった。

(ここで言われる「人間-でないもの」は、あくまで「二〇世紀の主題」として語られるもので、最近流行っている「ノンヒューマン」的なものとは別ものと考えるべきだと思う。)

●人間-でないもの

《それは二〇世紀の主題、自己像かつ強迫であり、意識には束の間の記憶だが、以後人類を「人間」にも「神」にも帰還不能な物とした、精神的/知覚的外傷であり、文明と歴史の構造的改変である。》

《時間の中にある「人間」の風景でもなく、風景を贈与する「超人間」の光や「妖怪」の機械的な力でもなく「人間-でないもの」は端的にはどこに見出せるだろう?》

●「でないもの」について(すごく重要)

《「でないもの/非ず/neti」は世界操作の基底則たる「真理」自体で、それは真に偽を、善に悪を、男に女を対置し概念を構成-分節するのでなく、真/偽に対して真でも偽でもないもの、善/悪に対して善悪を超えたもの、男/女に対して男でも女でもないもの、つまり、存在の全集合に対し空集合を補集合として立てる観念的な操作である。この操作が予め可能でないと、整数でも分数でもないもの、正数でも負数でもないもの、面でも立体でもないものを、その実体性を不問のまま概念化できない。無理数虚数、多次元空間へと、既成概念の様々な現実的操作が、その限界と外部を到来させ、概念が非常に観念的な操作で現実に近づいていくのが、人類の歴史である。到来する外部は多種多様だが、到来は等しく「でないもの」の事件として体験・記憶され、思想はそれを再度単一の観念、「真理」として、手で触れ領有したいと考える。この人類史的「でないもの」は、元々貧しく、隠されたもののない観念内部に、抑圧物の回帰のように認識=現実を発生させる、後発的な外傷であり、思想はそれを「真理」として「再認」するが、芸術はその真理を到来と外傷の体験そのものの「再帰」として、視覚・聴覚的に与えることを欲望する。》

●「でないもの」を体現する芸術の例1 キューブリック2001年宇宙の旅

《外傷を外傷として造形するには、一つは、視覚と聴覚に対して、意識を絶対的な受動的・隷属的状態に置くこと---すなわち「強制的に開かれた目。これは「歩行の困難(=腫れた足/オイディプス)」と対をなし、開かれた目(=快感原則)にとっては、いかなる歩行(=現実原則)も、「重力の抵抗」に抗し/備給される、等しく苦難の存在であり、新生児と老人は目に「同時に」存在する(そして猿と人間さえも)。それゆえ「歩行の困難(オイディプス)」はスフィンクスの問い=「時間の外にある存在者とは」を「人間」と名指したが、そこには超速の認識があるのではなく、本当は知覚に対し圧倒的に「落ちこぼれて」いる、受動的身体-意識の滞留あるいは遅延があり、それをスフィンクス=「謎の対話者/女/リビドー」は前方に飛び越したが、「開かれた目」にそれは映らず、彼女は恥ずかしがり崖の彼方の虚空に跳び、消えたのではないかと、「歩行の困難」は想像した。「開かれた目-歩行の困難-時間の圧縮」の接合体は、紀元前六世紀頃に人類と最初に遭遇した。》

●芸術の例2 タルコフスキー『ストーカー』

《---そしてもう一つは、視覚と聴覚を徹底的に鞭打って意識と歴史に高め上げ、感覚/思考からの撤収がそれ自身に回帰し、外的世界の知覚へと脱出できない、外部のない位相的閉塞を構成する道である。そこで意識は自分の真実-メタテキストを求め前進するが、その不在の周りを周回し、疲労困憊して始発点に環帰する。これは四次元に設置された三次元空間であり、自身の外部、すなわち「でないもの」を、何らかの現実的項目として掴むことはない。それが「人間-でないもの」ということであり、「人間」が神や価値を存在者(自己)の対置物として持つのと決定的に異なっている。》

キューブリックタルコフスキー

《『2001年宇宙の旅』と『ストーカー』では、その圧倒的に高まる作品密度の頂点において、等しくテーブルからグラス(ガラスのコップ)が落ちるが、前者では極めて「現実的」にそれが割れ---そこで身体-意識は完全拘束されているが、知覚は開かれ夢の外の音を聞く---、後者ではグラスは虚ろな音をたてて、割れないのは、その世界の自己貫入性-位相的閉域性のためである。いずれにせよ「人間-でないもの」は、線形的時間と対になった能動性を所有せず、時間の中で自己の対格たる他者と出会うこともなく、それは端的には、自明の「人間的感情」を持たない、という特質として現れる。》

タルコフスキーは色に関心がないが(ある意味では映像造形そのものに関心がない)、象形文字表意文字に等しいものを、真理への短絡路として、明確に視覚の中に有している。そしてこの対比として、人はキューブリックが、赤(血の赤)や紫を、同様に真理への短絡路として、特権的に有するものを再認する。色は何かの属性ではなく、それ自体が形相であり、文字として振る舞うこと、つまり真理の位格を持つことを近代哲学は確認してきた。つまり赤は概念であり、一つの真理であり、人間という「現実/物質より密度の低いもの」の本質的劣性を、その無時間的存在に分有する。真理への短絡路を担保せずに太陽を見つめれば、人はニーチェのように痴呆化=物質化してしまうだろう。視覚の中に、何らかの「文字」が仕込まれていること、これは「人間-でないもの」が、時間を持たず、他者を持たず、自明的感情を持たなくなっても、それが「-でないもの」の資格において「人間」を内部に継承し、人類の発展/消滅段階の一つとして、未だ物質には拡散せずに、「歴史を暗合化して」保有-伝達することを保証している。》

●次の文たちから、強く樫村晴香(的な毒)を感じた。

《二〇世紀は多分記憶に残らない。二〇世紀は一九世紀、一八世紀、……の記憶をもっていたが、自分が記憶されることには気を留めなかった。記憶されるのは父親であり、主権であり、希望あるいは「未来」だが、二〇世紀は父親の惨状を目にしすぎたので、つまり努力や誠実は報われないどころか正負反転の倍返しされるのを知ったので、食い散らかせるだけ食い散らかして、ずっと子供でいたいと考えた。父親はやがて子供に出会うが、子供がそのまま長じて出会うのは「知らない人」である。知らない人は私のことを覚えていないが、それは私の存在を覚えないのは宇宙にとって当たり前で、その「当たり前」は、私自身もまた私を覚えない、というこの時代の人間構造に由来する、そういう循環総体の射影である。》

《(…)人間の自己認識、自己像とは、本質的にそのような、入れ子状の厄払いの堆積であり、超自我とは、父親の模倣ではなく、父親がその父親にもっていた両価的ないし敵対的関係の取り込みで、それはほぼ無限に遡る(フロイトは夢のメカニズムを考察することで、この図式を既に得たと私は思う)。これは遺伝子が、一つの敵との遭遇で順応、進化するのではなく、それまでの無数の敵との戦いの、成功と失敗、適応の仕方の蓄積を、新たな敵によって検証され、選択されるのと類似する。とはいえ、この一回性の人生と今の時間を、無限に遡り、繰り返され、無限に回帰する闘争の、現勢的な覚醒、意識として生きる自己認識があるとするなら、それはやはり奇妙である。そして「人間-でないもの」、とりわけ「人間-でないもの」の時間性は、そういった奇妙さの線の上にある。》

《(…)深夜、銀河系の断面が克明に見える透明な空で、オリオンの一頂点、赤いベテルギウスを見るといい。この星は多分、存在せず、それが存在した時、あなたは存在していなかったし、この星の不在が見える時、あなたも同様に不在である。しかしそれを見ているという「事象」はそこにあり、その観念は、無数の星の空の中に、あなたを引き寄せ、体はゆっくりと浮いていく。》