2021-01-14

●昨日からのつづき。引用、メモ。討議「哲学とは何か、そして現実性とは」(入不二基義上野修、近藤和敬)「現代思想」2021年1月号から。

入不二基義の発言より。

《近藤さんの「擬製的創造」がもっているある種のポテンシャルは、まだ完全に発揮されていないように私には見えます。まず、「ことになる」という擬製的創造と似た「ことにしておく」という言い方が出てきます。「ことにしておく」は、定まらない全体、不定の実在について話すときに出てきますが、「しておく」という言い方では、「われわれがそういうことにしておく」という意味合いが強すぎる。「しておく」では、擬製的創造のポテンシャルがもっているはずの、「われわれの意のままにならない〈なる〉」という側面が、不十分にしか表現されないのではないか。

さらに、「ことになる」は「そうであることによって、もともとそうであったし、これからもそうであろう〈であることになる〉」と定式化できるわけですから、実は「である」という表現が二度出てくると捉えられます。前者の「そうである」というのが持続的な現在であるのに対して、後者の〈であることになる〉は無現在な「である」です。そのように捉えることができることに加えて、擬製的創造には「である」だけではなく「なる」も実は二度登場すると私は言いたいです。つまり、垂直的な「なる」と水平的な「なる」がいっぺんに働いている。まず、〈であることになる〉においては、無時制的な「である」事態が生成される。これは垂直的生成です。しかしそれだけでなく、表面上はかかれていなくとも、「そうであった(過去)」から「そうである(現在)」に「なる」わけですから、水平的な時間推移上の「なる」もまた働いている。擬製的創造においては、「である」も「なる」もどちらも、創造される内側においても創造するという外側においても、内外の両方で働く。いわば、擬製的創造は、それ自身の中に地ながら自らを創造するという構造を、もともと備えている。

他方プラトニズム的創造は、擬製的創造に対する逆変換と言われています。無時間にあるいは過去にイデアが本当にあって、それが現在に現象するという発想です。しかし「逆」でありながらも、擬製的創造にとってプラトニズム的創造は疎遠な他者なのではない。むしろ、逆変換を招き入れるような「である-なる」の転落構造が生み出す双子のようなものではないでしょうか。そのような擬製的創造(正立)とプラトニズム的創造(逆立)のペアリングに注目しないと、キャスティングボードが見えてこなくて、擬製的創造のポテンシャルを十分に開くことはできないのではないでしょうか(…)。

近藤さんによれば、逆変換では「ということになる」が抹消されます。しかし、逆変換だけが、唯一の抹消形式化という疑問が私にはあります。むしろ、擬製的創造(正立)とプラトニズム的創造(逆立)の両方がいっぺんに消されるかたちで「ということになる」が抹消される水準もあるのではないか、と考えています。その水準が「祈り」です(『現実性の問題』第3章参照)。擬製的創造のポテンシャルを開放してやると「祈り」に向かうのではないか。》