●たまたま興味深い記事をみかけた。「野中郁次郎氏が明かす「知識創造がうまくいく組織」に共通する特徴」(ダイアモンドオンライン)。
http://diamond.jp/articles/-/141090
《組織的に知識を生み出すためのSECIモデルには、「共同化(Socialization)」「表出化(Externalization)」「連結化(Combination)」「内面化(Internalization)」の4つのプロセスがあります。》
《そして、この4つのプロセスを回していくことで、暗黙知形式知の変換がなされ、組織的に知識を創造していくことができる、というわけですね》。
暗黙知形式知の変換》とは、ピエール・レヴィ的な顕在化と潜在化の交換と重なるように思え、この記事にある「知的創造理論」を模式化したという図が気になったのだった。
下に引用させていただく。



この図を、もっと分かりやすくするために、「一」と「多」という文字を付け加えてみる。



ここで、表出化とは、共同化された「多」としての暗黙知が成立している場(この場合、ある企業のセクションだろうか)から、誰か一人(「一」)が良いアイデアを思いつくことだと言える。要するに、潜在的暗黙知の顕在化であり、意識化であると言える。そのアイデアは、思いついた人一人の手柄ではなく、あくまで共同化された暗黙知が成立している場があり、たまたまそのなかの誰かから生まれたことになる。
次に、連結化とは、「一」としての形式知から「多」としての形式知への移行だろう。誰かが思いついたアイデアを共有し、それを別の人が発展させたり、一人一人が思いついた「良いアイデア」同士結び付けて、より高度なものへと構築してゆく作業と言える。これは意識的で集団的な構築作業だ。
次の内面化は、そのような形で共有化され、構築化された形式知を、その組織内に属する一人一人の人たちが、個々に内面化(暗黙知化)する過程だろう。知識を体で覚えさせる、というか、数学は、自分の手で計算しないと覚えられない、頭だけの知識では使えない、みたいな感じを脱するようにする、と。
そして、共同化は、知識を内面化した一人一人の人たちの間に、一つの共有された場のような関係が立ち上がるということだろう。単なる「一」の集まりではなく、ある「チーム」が創発される、と。なぜか知らないが、あの界隈は今、すごく冴えている人が多い、みたいな現象は、個々の人たちの力だけによって起こるのではなく、ある(無意識化された)関係性が上手く機能しているということによるだろう。
このようなサイクルがぐるぐる回ることで、創造性はらせん状に高まってゆく、と。
上にリンクした記事では、この四つのなかで特に「共同化」が難しく、そして重要であるとされている。しかし、そのための手段として、三日三晩飲むとか、チームごとに一つの鍋を囲むとかで、そこで「あー、またそういう……」みたいな疑問が生じる。
おそらく、「共同化」が重要で、かつ難しく、そのための手段として「三日三晩飲む」ようなことが有効であるということ自体は、きっと正しいのだろう。ただ、それは正しいとしても、それだけではあまりに偏っていて、そしてあまりに貧しいように思う。この部分を「重要」と言いつつも、これでは共同化の手法のバリエーションとして貧しいのではないか、そこにこそ工夫が必要なのではないか、と思ってしまう。もっと、多様なやり方は考えられないか、と。
そこで、図にもう少し描き足してみる。



最初の図では、顕在的な形式知としても、潜在的暗黙知としても、「多」を構成しているのは、この四角の内部にあるエージェント(人)だけではないという部分が見えてこないように思う。あるチーム、ある共同性は、ある程度は閉じられていて、それ自体の同一性を守っている(ある「チーム」という創発性がある)が、そうだとしても、まったく閉じられているということはない。新陳代謝のようなものがなければ淀んでしまうだろう。
そしてまた、人と人との関係は、それを媒介するツールや物、あるいはテクノロジーによっても左右される。外からの情報や人や新たなツールを意識的に取り入れたり、排出したりするだろうし、そのチームが仕事に用いているツールや道具や技法に、そのチーム内の関係性が無意識的(暗黙的)に規定され、結果として従属しているという側面があるのは当然として、そのチーム外にある個々の事情が、そのチーム内の関係の背景として関係を変えることも当然あるはず。
共同性を形作る方法として、皆が一体になるような「呑みニケーション」的なものしか思い浮かばないとしたら、その「創造性」は疑わしい。
グーグルによる「プロジェクト・アリストテレス」という研究では、社内に数百とある他者多様なチームやプロジェクを調査した結果、成功しているプロジェクトの共通点(成功の条件)はただ一つで、それが「心理的安全性がある」ということだったという結果がある。共同化というものを、そういう方向で考えられないだろうか。
「グーグルが突きとめた!社員の「生産性」を高める唯一の方法はこうだ」(小林 雅一)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48137
《たとえば一つのチーム内で誰か一人だけ喋りまくって、他のチームメイトがほとんど黙り込んでいるチームは失敗する。逆に(途中で遮られるかどうかは別にして)チームメイト全員がほぼ同じ時間だけ発言するチームは成功するという。》
《つまり「こんなことを言ったらチームメイトから馬鹿にされないだろうか」、あるいは「リーダーから叱られないだろうか」といった不安を、チームのメンバーから払拭する。心理学の専門用語では「心理的安全性(psychological safety)」と呼ばれる安らかな雰囲気をチーム内に育めるかどうかが、成功の鍵なのだという。》
チームの雰囲気がピリピリと緊張感があるのか緩いかとか、序列がはっきりしているのか平等かとか、あるいは、能力の高い者が多いか少ないかすらも、ほとんど生産性には関係なく、ただ、チームのメンバー全員が同じくらい発言しているかどうか(それが促される雰囲気であるかどうか)が、生産性の違いを生んでいた、という。
そこでさらに、もう一つ、元の図に描き加えた図を示す。



この図が示すのは、共同化された暗黙知から、そのなかの一人が具体的な良いアイデアを出す(「一」として形式知化する)という行為も、組織として構築され、共有化された「多」としての形式知を、チーム内の誰かが「一」として内面化して自分の実とするという行為も、どちらもその人の「全人格」をもってなされるということで、そして、その全人格とは、「組織(チーム)内」としてのその人の役割やあり様から大きくはみ出ているということだ。一人の人が、完全に一つのチームの一員としてだけ存在することはあり得ない。
そうであれば、顕在化(形式知化)も、内面化(暗黙知化)も、どちらもそのチームの外をあらかじめ含んでいることになる。会社内で出されるアイデアは、会社員としての「わたし」からだけ出てくるものではなく、「わたし」が生きてきた経験のすべてのなかから出てくる。その経験の一部に、そのチームとして暗黙知化された共同性が含まれているということにすぎない。そして、チーム内で構築された共同的な形式知の内面化もまた、「わたし」という全人格を通じてなされる限り、一人一人そのあり様ややり方は異なっている。共同化といっても暗黙知が完全に重なるわけではない。
つまり、共同性とは、みんなが一体になることではなく、ベン図で複数の円が重なった「交わり」の部分が生じることとしてあり、そうである限り(それぞれの個を通じて)交わりの外とも繋がりがあることになる。むしろ、交わりの外との繋がりこそが、交わりから表出されるものを豊かにするとも言える。
だから当然、下の図のように、そのような暗黙知や内面化は、ある特定のチームとは「別の出口」に向かうこともある。この、別の出口を抑制して、その人格の全てを「チーム」に向かうようにすることは、創造性の抑制としてしか働かないと思われる。



さらに言えば、下の緑の塊のように、「一」である個のなかには、どのような形でも外へは出ない、他との関係を結ばない、ある脱去した部分があると考えられる。この部分を、チームに受け渡すことを強いてはならないだろう。



(最初の図は、それ自体としてかなり面白いのだけど、一人の人が、常に一つのチームに所属し、その所属するチーム---そしてそのチーム内での関係性---がその人のアイデンティティを規定している、みたいなことが前提にされてしまっているように感じられる。)