●ちびちび観ている『蟲師』は、DVDの七巻(20話)まで行った。とうとう我慢できなくなって、原作の漫画をまとめて全部買ってしまった。まだ一巻目をパラパラ観ただけだけど、比べると、アニメがびっくりするくらい原作に忠実につくってあるのだということが分かる。物語や展開だけでなく、構図や背景、セリフといったところまでかなり忠実になぞってある。だけど比べて分かるのは、忠実だからこそアニメとしての表現が際立っているように思われるということだった。ちょっとした動きとか抑制された音とか空間性とかが効いている。
この『蟲師』で語られているようなものを、物語として加工されるよりもっと前の、より無意識に近い、形になっていない以前のところで取り出して、それをなるべくそのまま、作品として成立するように形式化、構造化したいという欲求がぼくにはある。作品の形式性(あるいは抽象性)とは、その素材となるものの未分化性、未規定性(捉え難さ)を保つためにこそ要請されるとぼくは思う。形にならないものを、「形にならないままになるべく近い形」で取り出すために、作品には高い形式性が必要とされる。例えばエンターテイメント的な物語は、形にならないもの、形のないものを、どのようにして既に社会的に広く認知され、習慣化された形へと上手に加工できるのかという指向性であり技術であると思う(だからその良し悪しは、わかりにくいもののわかりにくさを殺してわかりやすい形にしてしまっているのか、それとも、わかりやすい形のなかに、ちゃんとわかりにくいものが表現されているのか、の違いにあると思う)。対して、形にならないものの形のなさを、より正確に尊重出来得るような、それをよりナマに近い形で取り出せているような、未だ認知も習慣化もされていない別の形(習慣)、あるいは未だ発見されてない別の形(習慣)を探すという方向を、どうしてもぼくは指向してしまう。そして、それはどうしてもややこしい形になってしまいがちだ。
蟲師』では、原作よりも、それを加工したアニメの方が、少し未分化な方向へ遡行しているような感じがある。でも、その元になる「形にならないもの」は原作のなかにあるものだ。アニメはそこから分析的に遡行している感じ。
●『げんしけん二代目』は、三話もすばらしかった。この作品は、「形にならないもの」がどうこうというものではなく、明晰な意識とバランスのとれた知性によって優れたものになっているのだと思う。この物語を支えているのはあくまで、欲望を肯定しつつもそれを分析的に取り扱う分節的な知なのだ。
●『猫物語(白)』三話。面白いは面白いけど、ぼくはどうしても、このシリーズはファイヤーシスターズが出てくると場面が弛緩する傾向があるように感じられる。この二人の妹キャラが作品の構造のなかにイマイチ上手くハマっていないというか、効いていない気がする。