●ここ何日かは停電がなくて済んでいるけど、停電をきっかけに今までまったく聞かなかったラジオをいろいろと聞いてみようかと思っていた。でも、どうもぼくはラジオが苦手みたいだと分かった。テレビなら、点けっぱなしにして別のことをやりつつ、気になった部分だけパッと観てまた離れるということが出来るけど、ラジオの喋りは、こちらにべったりくっ付いてくる感じがあって、どうしても「流して」おけない。なんというか、パーソナルな部分に入り込んでくるような感じで、聞いていて恥ずかしいというか、鬱陶しいというか、なんか「近すぎる」感じにもぞもぞしてしまう(中高生の頃はラジオ好きだったのだけど)。
どうもぼくは、「感情の共有」のようなものを前提にするものが苦手であるらしい。ぼくが、ロックやヒップホップみたいなものにどうしても馴染めない感じがあるのは、それらがある種の感性や感情の共有という点に強く作用する音楽だからではないかと、最近気付いた(マニアック-自己完結的な匂いが強いものは割と好きなのだが)。感性や感情という部分で非常にセンシティブな表現がなされていて、その部分がシンクロする人に対してとても強い力をもつのではないか(あるいは、それが合わない音楽に対しては強い拒絶感が出る)。それはなんというか、感性によって結びつくコミュニティを指向するような気がする。
対して、ジャズなどを含めたダンス音楽とかは、感情よりもむしろ身体的な快感に強く訴える分、ぼくには馴染みやすい感じがする(勿論、そんな簡単にきれいには分けられないけど)。あるリズムや音色を受け入れられるかどうかということは、(個々の)身体的能力やリズム感にゆだねられる。リズムの受け入れは、感性や感情を通り越して、より直接的に身体感覚(運動)の(再)構築によってなされる。それは身体的な所作の刷り込みによって生まれる共同性に近いが、常に流動的に変化し混じり合い、新たなものとして再構成される。それと、リズムの共有は、身体の非共有という矛盾といつも表裏一体としてあり、それを浮かび上がらせる感じ。クラブに行っても誰とも話さず、大勢のなかで(みんなと一緒に)、しかしたった一人で、ずっと踊っている、というような。内省的ではない、身体的で、外的環境とともにある内向性。同調性が強い一方、求道的、自己完結的にもなり易い、とか。
まあ、音楽に詳しくないのでとても雑な言い方になってしまっているとは思うけど。
ぼくにとって抽象性が重要なのは、このようなことと関係がある気がする。つまり、直性的、具体的であるために抽象性が必要なのだ。物語は、このような直接性、具体性を緩めて、感情やその共有の方に流れるから嫌なのだと思う。いや、感情の直接性というものもあるから、この言い方は雑であるかもしれない。物語によって生起する感情と、感覚によって生起する感情とは異なると言うべきなのか。セルリアンブルーやバーミリオンが生起させる感情は、どのような物語とも関係がないし、物語によって説明的に置き換えることは出来ない。ぼくは多分、感覚(的な感情)の具体性が物語(的な感情)の一般性に汚されてしまうのが嫌なのだと思う。
ここからは理解してもらうのが難しいかもしれないのだが、感覚の具体性は物語の一般性には置き換えられないが、「別の感覚の具体性」と等価であることが出来る。ある面積のセルリアンブルーとバーミリオンとの関係によって生まれる感覚が、別の面積のカドミウムイエローとビリジアンとの関係と交換可能である、という風に。あるいは、ある坂道の傾斜をのぼる時の感覚と、バーントシェンナとイエローオーカーとクロームグリーンとの響きとが、等価なものとして成り立つ、というような。等価であり交換可能であるということは「同じ」であるということとは微妙に違うのだが。ある具体的な感覚と別の具体的な感覚とか等価となり、交換が可能となることがあるからこそ、表現が成り立つのではないか。
●ここで物語というのは象徴秩序のようなもののことではなく、想像的なものを駆動させる装置のこと。もう一方で、象徴的な秩序や「問題」という意味での「物語」というものもあるだろう(でも、象徴秩序のようなものは本来不可視の領域で自動的に作動する秩序-構造だから「大きな物語」というようにして物語と呼ぶことは適当ではないと思う、神話や物語として可視化されれば既に想像的なものの圏内に移動しているのではないか)。ぼくが言っているのはそのどちらでもない、象徴的な圏域とも想像的な圏域とも違う場所で働くなにものかを、感覚-身体所作の組み換えのような形で創り出せないのか、みたいなことだったりする。よろこびの具体性、苦痛の具異性、疲労の具体性、のような。しかし、こういう言い方が既に「物語」なわけなのだが。
●もう一つ。ぼくが物語的な感情の共有が苦手なのは、それに興味を持てないからではなく、むしろ真逆で、ぼくがそれらに過剰に反応し、過剰に引っ張られてしまう傾向にあるからだと思う。空気や他人の顔色に過剰に影響されてしまうからこそ、それをいったん遮断しないとやってられない、あるいは、共感や同調や感情の転移に人一倍弱いから、それとは真逆のものに強く惹かれる、という感じ。花粉に過剰に反応してしまうから花粉症が辛い、みたいな。だからラジオからの語りかけに、スイッチをオフにしてしまいたくなる。
●これはあくまでぼく個人としての話であって、物語や感情の共有が人を勇気づけることそのものを否定するわけではまったくない。これは「〜すべきだ」という話ではない。たんに、それはぼくのやることではないと、そういうのがちょっと苦手だという人もいるということをちょっと理解してくれればなあと、言っているだけなのだ。