ニコニコ動画にあった長谷敏司藤田直哉トークイベントの動画を観ていたのだけど、ちょっとおこがましい言い方かもしれないが、ここでの長谷敏司の発言はびっくりするくらい今考えていることと近い感じで、びっくりした。考えが近いというより(感覚的にはちょっと違う感じもあるので)、問題意識が近いという感じか。
http://www.nicovideo.jp/watch/1370609237
とはいえ、身体性に関しては、ちょっと楽観的なのではないかという気もする。例えば、長谷敏司の小説にあるITPという装置は、「身体性」という感覚そのものまでも、脳だけによって仮想的にシミュレートできるような装置なのではないだろうか、とか。
意識のダウンロードみたいな問題で重要なのは、「身体性」の問題であるよりも、「わたしというクオリア」が、「ここ」ではなく「そこ」にあるという感覚が成立するのか、という点にあるのではないかと思う。自分と完璧に同じものが目の前にもう一つあったとして、そいつを「奴」ではなく「わたし」と感じられるのか、と。でもこれは法条遥的主題であって、長谷敏司的な主題ではないかもしれない。
●ぼくはキャラクターの問題というのは、世界が(「世界(あなた)」と「わたし」との分離という形で)二人称としてたちあがるということと密接に絡んでいると思っていて、「わたし」の成立にとって「(わたしから分離―連結された世界としての)他者=あなた」の存在が前提としてあるからこそキャラが機能する、のではないかと思う。「わたし」にとって「他者というクオリア」が成立するから、その位置をキャラ(あるいは、実在する人やモノという、クオリアを受けとめる「かたち」をもった何か)が占めることができる。他者とははじめから「かたち」として現れるもので、「かたち」は、他者というクオリアが成立する側面で強く作用する何かではないか、と。これは対象aという概念と近いかもしれない。「あなた」は「わたし」というクオリアと不可分であり、「身体性」は、「かたち」と「機能」の間、「わたし」と「あなた」の間にある媒介という点で重要なのではないか(どのような「かたち」ならば「あなた」足り得るのか、という問題)。「allo,toi,toi」は、その辺りの問題に関してもとても面白いと思った。
問題は身体であるよりクオリアであるような気が、ぼくはする。身体性から存在の問題にいくのではなくて、ぼくのイメージだと、身体が完全にバーチャル化した後にもなお、あるいは死後もなお、宇宙のなかで孤独に浮遊するクオリアとしての「わたし」があってしまうとしたら…(それはぼくにとって非常に強い恐怖なのだけど)、みたいな感じがあるのだが、それはぼく固有の幻想でしかないのかもしれない。例えば「魂」という概念だと、それは地球上でしか有効でなく、地球上にある限り「魂」概念はある安らぎを与えてくれるかもしれないけど、宇宙に浮遊するクオリアとなると、それが際限のない恐怖となる。
(『BEATLESS』は、『あなたのための物語』を読んだすぐ後に読み始めたのだけど、ぼくには文章がかなり入り込めない感じで、この感じをこんなに長く読むのはちょっとなあ…、と思ってやめてしまったのだが、改めてちゃんと読まないとなあ、と思った。)
(トークの主題からはずれるけど、もしシンギュラリティがやってきたとして、そういう時代に「リアル(実在)」があると考えられるためには、「身体性」だけでは弱くて、一方に「宇宙」という審級が必要だとぼくには思われる。もう地球上だけだと唯物論は成立しないのではないかという気がする。すべてが人工知能に支配されたバーチャルな世界だとしても、あまりに大きすぎて手におえない――想定し切れない――壮大なバーチャル集合としての「宇宙」みたいなものが実在となる、みたいな。物理法則は、何故そうなのかは分からないが「こう」なのだ、という形でこの宇宙に強制的に与えられていて、その理由のない、変更不可能な「物理法則(初期設定)」こそが実在の代補となる。人工知能も物理法則は超えられないだろう。)