東京造形大学CS-Labへ「組立-転回」を観に行く。以下、感覚的、印象的な一言コメント的なものでしかないけど。ちょっと辛口方向で。
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永瀬恭一さんの今回の作品は、ちょっと反動的にきれいすぎるのではないかと感じた。永瀬さん風に言えば、「美」に対する批評性が弱くなっているのではないか、と。このような「桜の花びらが散っている」みたいに美しい絵を描いちゃっていいのだろうかという感じ。例えばぼくは、同じような違和感――しかし、より強い違和感――を児玉靖枝の作品などから感じるのだけど、今回の永瀬さんの作品は、ややそっちに寄ってしまっているように思った。この感じを言葉にするのは難しいのだけど、洗練がこっちの方向に行き始めたら危険、みたいな匂いをちょっと感じた(それは工芸的な仕上げのきれいさみたいなものとは、ちょっと違うのだけど)。展示の仕方にしても、パネルの矩形と、窓枠や柱の形とを響かせて心地よいリズムをつくるみたいな感じがちょっと上手くやりすぎに思えてしまった。作品の性質上(デリケートな白の操作による絵画だから)、上田さんの作品がかかっていた方の汚い壁を避けたのは理解できるけど(あの壁はもう少しきれいにした方がいいと思った)。
ぼくの理解では、中山雄一郎さんの作品は、粘土、合板、角材、ボルトとナット、縄という使用される素材が、その質感の対比性と性質の対比性(例えば粘土だったら、可塑性、重さ、滑らかさ、合板だったら堅牢性、平面性、直線性など)を語彙として、それをもとに文をつくるようにある抽象的関係性を構築する作品だと思った。例えば合板が素材として選ばれているのも、それが表情としてぶっきらぼうで美的な関心を喚起しないもの(半ば記号で半ば物であるような形で知覚に現れるもの)だからだろうと思った。質感や表情の違いをある程度は感じさせつつ、しかしそれ自体は強く主張はせずに、ニュートラルでもあり得るような素材が、巧みに選ばれていると思う。例えば古典的なブロンズ彫刻が、ブロンズという素材を生かしつつも、ブロンズそのものの質感や性質を見せるのではなく、ブロンズはあくまで「かたち」をみせるための媒介であるように、中山さんの作品では素材は媒介、あるいは語彙という位置にあるように思う。
そこで素材それ自身が、構成要素(語彙)であるという以上に主張(表現)してしまうと(例えば大げさに言えば、磨き上げられた漆塗りのような表情とか、逆に、古い壁のような荒れたテクスチャーとか、そういう感じで表情が主張してしまうと)、抽象性が損なわれてしまうように思う。合板が粘土で汚れていたり、粘土の練りの感じがイマイチだったりするとそこに中途半端に主張する(しかしそれ自体で表現たり得るほどではない)「表情=手仕事感」が生まれてしまい、物であることを主張しはじめ、それが構築された抽象性と齟齬をきたすことによって作品を鈍重にしてしまう。手仕事感が見えてしまうと、抽象性を支える素材のニュートラルさが、チープさ(あるいは「味」)に見えてしまうので、もう少し素材がニュートラルなままであるような配慮があってもいいのではないかと感じた。
(ただ、中山さんの作品は暖房などによる温度や湿度の変化の影響をすごく受けそうだから、展示の間に制作時とはちょっとニュアンスが違ってしまっているという可能性もある。)
上田和彦さんの作品には洗練(あるいは、上手になること)を拒否するようなある種の荒々しさが感じられ、何点かの作品ではそれが強い魅力となっていると思った。簡単には解決されない齟齬によって画面が動いているから、視線を引きつけるとともに撥ねつけもして、観る者の安易な解決を拒み、何かを刺激する。しかしそれがなされるフレームの設定が小さ過ぎるのではないかとも感じられてしまう(ここで「フレーム」という言葉は、かなり多義的な意味を含んだ曖昧で感覚的な使い方をしています)。それはたんに画面のサイズが小さいということではないが、サイズの小ささとは無関係ではないように思う。荒々しさが、広く大きく波及する感じがあまりなくて、腕を伸ばして筆を操作できる空間内に納まってしまう感じがある。あるいは、その荒々しさは結局は筆触の問題の内部に納まってしまうようにも見える(そうではないとしても、そのようにも見えてしまう)。大きいものや多くものや雑多なものに引きずられることへの抑制があるように感じられて、その辺に上田さんが縛られている何かがある感じがして、それが突破できそうでなかなか出来ていない感じもある。
●上田和彦・原田裕トークは、先輩とその先輩を慕う後輩とが、カフェの隅で、ぼそぼそと、しかし熱心に話し込んでいるのを、たまたま隣のテーブルにいたので聞いてしまった、みたいな感じの雰囲気だった。天井が高くドーム状になっているがらんとした空間のなかにいて、外が暮れてゆくので光が刻々と移り変わっていって、八王子の強烈な寒さをひしひしと感じながら、そのようなトークを聞いているのは不思議に味わい深かった。