●外に出て空気に触れているだけで気持ちがいい。何もせずに、ただずっと外にいたいような陽気の日。五月だ。
●雑誌「建築と日常」のイベントで、坂本一成設計の「代田の町屋」を見学した。午後からトークイベントがあり、午前中はその抽選から漏れた人のために建物の見学ができる時間が設けられていて、ぼくは午前中に観た。抽選に漏れた人ということなので、少人数だろうと思っていたら、狭い家のなかが大勢の人でごったがえしていた。
http://kentikutonitijou.web.fc2.com/taki/20130506event.html
●ぼくは建築には詳しくないけど、坂本一成という名前は「建築と日常」にしばしば登場する(別冊「窓の観察」以外では毎号)ので知っていたし、それなりに関心ももっていたし、著作も買った。でも、興味を持ちつつも、発言やテキストだけを追ってゆくのでは、大筋でなんとなく言いたいことは理解できても、それ以上ぐっと入り込んで理解しようとすると、どうしても理解がぼやけてしまうというか、よく分からないところが出てくる。これはぼくが建築に疎いと言う理由もあるのだろう。なので著作も買ったけどパラパラ眺めただけになってしまっていた。でも、実作を一つでも観てみたら、テキストから読み取れるものもずいぶん違うのではないかと思っていた。とはいうものの、ずいぶん前に長島さんから「神宮に商業施設があるから観られる」という話は聞いていても、わざわざ調べて観に行くというところまでいなかった。それで今回のイベントを知って、それはぜひ観てみたいと思った。
一応、事前に「建築の日常」別冊の「多木浩二と建築」に載っている坂本一成インタビューの「代田の町屋」についての発言の部分と、多木浩二の「「形式」の概念」からの抜粋の「代田の町屋」の部分を予習として読んだのだけど、やはりそれだけだと、なんかこうぼんやりとは分かるんだけど、という感じだった。しかし、実際に「代田の町屋」を観て帰ってきてから改めて多木浩二のテキストを読んだら、すごくびっくりするくらい言いたいことが理解できて、同時に、多木浩二の空間の理解と分析の鋭さに舌を巻いた。
例えば「代田の町屋」のファザードについて次のように書かれている。
≪ところがそれはいかなるイメージにも結びつかない。むしろ次第に家のかたちについて、われわれがごく一般的に知っているステレオタイプに近づいてゆく。比喩的ないい方をすると、選択されたものはヴィジブルというよりも、コンセプチュアルなのである。(…)この建築家が、さまざまな可能なはずの建築の外形におけるイメージ、あるいは「表現」、もっと一般的に「現象するもの」に、疑いの眼を向けていることに気付くのである。≫
ここで言われる「ヴィジブルではなくコンセプチュアル」や、「現象するものに疑いの眼を向ける」という言い方が、テキストを読むだけだと、なんとなくは分かるけど正確には分からないという感じだったのが、実際に建築物を観た後ではとてもよく分かるのと同時に、その把握力に驚かされる。ここではある種の抽象的な感覚のことが言われていると思う。その感じは実物を観れば分かる人にはすぐに感じられると思うのだけど、それをこのように的確に言葉にするのはとても困難だ。しかしそれと同時に、現物を観ないで、この言葉だけから、ここで「言われている感覚」を理解するのも、かなり困難であるように思われる。
ぼくは、「代田の町屋」を観てとても面白いと感じたのだけど、その感じをどう言えばいいのかがまったく思いつかなくて、多木浩二のテキストを改めて読んで、そうそう、こういう感じ、と思った。
≪リビングや寝室だけでなく、階段室や中庭がそれぞれ自立した場所になり、しかもそれらは等価なもののように分散され、隣接しあう。「広さ」と感じたのは、この分散的な性格にもとづき、長い敷地のなかに内部と外部を配置し、進入の方向の変化を組み合わせることからつくりだされた分節の複合性にほかならない。≫
本当にそういう感じだった、と思うのだけど、やはりここでも、この文章を読むだけで、「あの感じ」を思い浮かべるのは困難だなあとも思う。実際、事前にここを読んだ時は「へえ、なるほど」くらいの反応しかできなかった。別にぼくは多木浩二のテキストに難癖をつけているのではなく、むしろすごい把握力だと驚いているのだけど、それでもなお、作品について記述するということの難しさがあるということを言っている。例えば「分節の複合性」という言葉が言説として理解される時、それはどうしても「代田の町屋」の「あの感じ」からはズレてゆくだろうと思う。
≪この部屋のなかでわれわれが動いてもそれにつれて空間がざわめいたり、流れだしたりしないのである。またどの部屋に入っても、息をのむような感動をうけるとか、感覚世界にまきこまれるようなことはない。床、壁、天井にかこまれ、限定されただけの空間なのである。かれはヴィジブルな経験にあらわれるものより、より客観的なものを求めているように思える。≫
ここで「客観的」という言葉が示しているものを(実作を観ないで)テキストだけから読み取ることは難しい。ここでの客観性とは、「ヴィジブルな経験」を相対化するような形式性、抽象性のことであり、「もの自体」のようなことではないだろう。
≪つまりかれが求めているのは、見るものによってうつろう影ではなく、もっと確実に建築的なものである。しかし、もの自体をおいかけているわけではない。それは存在的ではなく、フィギュールにすぎない。≫
ここで経験や現象に対して置かれる「客観的」とか「確実に建築的なもの」とか言われている概念は「存在的」なものではなく「フィギュール」である。しかしここで形象とは抽象であり形式であろう。実作抜きでここだけ読むとある種の論理のアクロバットのようにも読めてしまうが、実作を観た後だとすんなり納得できる。
このような形象−形式は実作においては、具体的な事物のデリケートな操作(例えば、木を素材として選択しつつ、ペイントによってそれを否定する)や、物と物、形と形の類比(床、壁、天井による限定と開口のズレ)によってあらわされている。この作品において現れる≪非象徴的な具体物≫(客観的なもの)とは、類比的な関係性そのものなのだと言える。
≪(…)ごく具体的であるのは、実は、まったく抽象的な図の上に示されうる幾何学的な配置、壁、床、天井などの位置関係であり、本来なら可触的であり、感覚的であるはずの面材の方が、きわめて抽象的、あるいは中性的なのである。この逆転した関係が、この建築の独自の思考である。≫
この言い方も、実物を観ることによって説得力をもつ。
形式主義的、あるいは抽象的ということは、内容に対して形式を優先するということではなく(内容を括弧にくくることではなく)、形式的なものこそが具体的に現われることであり(もっと言えば、形式こそが具体物――内容=高次の現実――であるということを主張することであり)、そのために象徴性や現象性を後退させることだということが言われていると思う。ここからは多木浩二のテキストを逸脱してしまうかもしれないのだけど、もし、形式こそが(高次の)具体物であると言えるとすれば、形式化を推し進めることが、社会や歴史(現実)を排除するということにはならなくなる。むしろ、作品と社会や歴史とは、(象徴や現象によってではなく、「存在」によってでさえなく)形式や抽象性において結びつくのだし、関係づけられ、開かれるのだと言える。「代田の町屋」においてはこのようことがらが主張されているというより、「この感じ」というような、非感覚的感覚として実現されているように感じた。
●この「代田の町屋」は現在、売りに出されているということです。下のリンクは「建築と日常」の編集者である長島さんが書いた「≪代田の町屋≫の危機」というテキスト。
http://www.dezain.net/2013/23902