●京橋のASK?で井上実展、八丁堀のミルクイーストで「無条件修復」第一期。どちらも面白かったけど、井上くんの作品は、現代絵画としてはもう別格の域に達しているんじゃないかと思った。別格というのは世界的にみても別格ということで、ぼくが知っている限り、こんな仕事をしている人は他にいない。これを観て感嘆しない人がいるということが、ぼくには不可解に思えるくらいだ。
4Kとか8Kとかが当たり前になって、デジタル画像が恐ろしい程の解像度を持ち始め、しかも高解像度のカメラとその画像の加工技術とを誰もが使い得る時代になってしまったので、絵画が解像度の高さにおいてデジタル画像と張り合うのはほぼ無理な(あるいは無意味な)感じになってきていると思う。なので、ぼくとしては、絵画自体はシンプルなものにして、そのシンプルさが人の頭(身体)をどれだけ複雑に動かすことが出来るかという事を考えるのだけど、井上くんの作品を観ると、解像度とは別の密度というものがあることを教えてくれる。
(解像度とは別の密度というものがある、と言ったとしても、その「密度」という語の内実が記述されなければ、ただ別の言葉で言い換えただけに過ぎないのだが、とりあえずここで「密度」の意味は井上実の画面のことだ、と、指示対象に意味を預けてしまう。そうするとこの文の連なりの「意味」は、ただ「井上実の絵画を観ろ」と言っているだけになる。ここで言われる「密度」の意味の記述は、別の場所へと先送りにされることになる。)
「無条件修復」については、企画者たちの意図とはずれるかもしれないが、ぼくには、サイトスペシフィック性からトポロジー性へ、トポロジー性からサイトスペシフィック性への変換というような運動が場のなかで様々に起っている感じが面白かった。
そもそも「無条件修復」という展示は、ミルクイーストという「この場所」「この建築物」に根拠をもちつつも、そこから「修復」という一般的な問題を抽出し、「この」という具体性を「修復」という問題へと抽象化、形式化することで成り立っていると言える。固有性と抽象性(問題性)が重ね描きされた「場」としてのミルクイーストが、様々な作家や作品を呼び集め、それらを繋ぐ媒介となっている。逆に言えば、呼び集められた作品たちによって具体的で抽象的な「場」が生成される。しかし、それらの作品、そのような状態となった「場」は具体的なある場所にしか存在していないので、それを観るためには、ミルクイーストという「この場所」にまで出かけてゆかなければならない。
例えば、松本直樹による壺やカップの作品は、固有の物である「この壺」に対してトポロジカルな操作を行うことで、「これ」でありつつ「形式」であるような状態をつくる。あるいは、篠崎英介による衣服を用いた作品では、衣服という特定の日常的機能をもつものにトポロジカルな形式性を意識させる操作を加え、しかしそこに「洗濯物を干す」という具体的、日常的文脈も介在させることで、機能から形式、形式から機能と、どちらへも進む「操作」の双方向性を際立たせる。
そして、坂川弘太+瀧口博昭+山岸武文による「舟のために三階を切り離す」では、「無条件修復」という展示を可能にしている「この空間」の全体を一挙に俯瞰的視点で捉え、形式化(図面化、模型化)する。おそらく、屋根の形を逆転させることで舟が連想されたのだと思われ、その想像力は形式的なものであろう。この、ある意味荒唐無稽なプランは、「この場所」を想像力によって虚構的なものとして捉えなおすことで「この」性、具体性を中和する。
だが、もしこのプランが実現され、実際にミルクイーストの三階部分が、例えば隅田川に浮かぶということがあるとすれば、トポロジカルな想像力に導かれた虚構性によってサイトスペシフィックな「ここ」を相対化する「舟のために三階を切り離す」というプランが、再び具体性、サイトスペシフィック性へと回帰し、再着地することになる。
「これ」であるという具体性が抽象的な形式性を導き、ある抽象的な形式が「これ」であるという具体性を導くという、相互媒介が生じているところが面白いと思った。