●比喩と、具体性と、一般性(抽象性・普遍性)とを、すべて連続的なものとして考えることはできないだろうか。
●たとえばもし、比喩が十分な精度と密度とをもつならば、その時それは具体性と見分けがつくのだろうか。
●比喩とは、あるものとあるものとの関係が、別のあるものとあるものとの関係へのなかにも見出される(それによって関係と関係とが関係する)ことなのだとすれば、それは、われわれの世界へのアクセスの仕方(認識、構え、意識、技法)の根本的な条件を示し(現し)、そしてつくり出すものと言えるのではないか。
われわれが何かを「知る」というのはつまり、比喩的に知るということなのだとは言えないだろうか。比喩が退屈だとすれば、それが退屈な(分かり切った、紋切型の、古くなった、精度の低い、見当はずれの、不正確な、人を言いくるめるために偏向させられた)比喩だからではないだろうか。
●抽象的なものと抽象的なものとが関係する(数式のように)。具体的なものが、そこから還元され、あるいはそれを記述する数式やモデルやパターンのような抽象的なものと関係する。そして、具体的なものが別の具体的なものと直接関係する(類似や類比的直観として)。それらは様々に組み合わせが可能である。ある具体的なものが抽象性へと還元されることで、その抽象性を媒介として別の具体性との関係が導かれることもあれば、二つの具体性からの類比的直観によって抽象的なものが導きだされ、それが第三の具体性に応用可能となることもある。それらのすべてを比喩的過程ということは出来ないだろうか。
●あるいは、眼球を通って網膜に収束する光が脳によって(時空的、状況的、情動的に意味を持つ)視覚象へと変換される(光の分布の抽象性が意味の具象性へと変換される)過程までをも、比喩的過程と言うことは出来ないだろうか。
●あるいは、「白雪姫」と言うとき、「雪」と「姫」とが関係づけられるだけでなく、「白雪姫」という概念が「シラユキヒメ」という音の連なりのイメージと関係づけられる(「雪」と「姫」との意味の具体的関係性=意味的接合が、「シラユキヒメ」という音-リズムという感覚へと関係づけられる)ことまで含めて、比喩的過程と言うことは出来ないだろうか。
●さらに、一般性とは汎用的な比喩のことだとは言えないか。例えば、「E=mc²」というのは、われわれが現在知り得る限りでの物理的な世界のすべてをカヴァーすることの出来るほどに汎用的で、とりあえずは絶対的と言ってよいほどの精度をもつ(われわれがその外へ出ることが不可能な)、「比喩」だと言う事はできないだろうか。