●小説を書くようになってから(「書くようになって」などとエラそうに言えるほど書けてはいないのだが)、面白い夢や印象的な夢、濃い夢を見ることがぐっと少なくなった気がする。書くことで、夢を見ることへの欲望がかなり解消されてしまっているのかもしれない。
よく、人の夢の話は面白くないというけど、それは夢自体が面白くないのではなくて(人に話したいと思うのだからその夢自体は面白いはずなのだ)、夢のリアルさを表現するように言葉がうまく組み立てられないから、恐らく喋っている側も途中で、もっと面白いはずだったのに口にしてみたらなんかつまんなくなっちゃったな、ということになるのだと思う。
たとえばここで「夢の論理」みたいなことを言ってしまうとそれが既に間違いで、「夢の論理」という言葉それ自体が「現実の(リアリズムの)論理」に沿って組み立てられている(リアリズムの手垢に染まっている)「便利な言葉」だから、夢のリアルを捕まえるにはまずそこから組み直すというか、別の道を探らなくてはいけない。
図ではなくて地が問題だというのもそういうことで、現実の論理という地の上でいくら華々しい奇想を繰り広げても、それは現実としてユニークということになってしまって(それはたぶんファンタジーのようなものだ)、夢としてのリアルではなくなる。
夢のリアルを捕まえると言ってもそれは自動筆記のようなものではない。というか、夢のリアルと言ってすぐ自動筆記が連想されてしまうような経路のことを「リアリズムの論理」と言う。普段は、そのようなリアリズムの論理にどっぷり浸かって生きている。そのようなリアリズムの論理の抑圧を外すために、とりあえずそれとは「別の通路」を考えてみる。
しかし、「別の通路」(リアリズムを脱臼させるもの)であれば何でもいいというわけではない。それは、あるリアリティへの予感や、ある発展性への予感へと通じているものでなければ面白くない。しかしその判断は、予感以外の根拠を持たない。面白いというのは、そこに何かしらの予感が含まれているということだ。
だから結局、考えて、考えて、考えて、考えた末に、わけがわからなくなってポロッと出てきたことを書く。