●ずいぶんと久しぶりに『七人の侍』(黒澤明)をDVDで観たのだけど、思いの外ロシア映画っぽくて、黒澤明はやはりロシア好きなのだなあと思った。クローズアップの撮り方とかモンタージュとかがすごくロシア映画的。アメリカ映画とはあきらかに別の方向を向いているこの映画が、多くのアメリカの映画作家から強く支持されているというのが面白い。
ぼくは、黒澤明は本当は『白痴』みたいな映画をもっと作りたかったのではないかと思っている。とはいえ、それはあまり受けのよい作風ではない。黒澤が時代劇を撮るのはおそらく、ロシア文学的な主題と、左翼的な思想(の啓蒙)と、映画としてのスペクタクルな娯楽性とを、時代劇でならば合流させることができると考えたからではないか。『七人の侍』は、まさにそういう映画だと思う。
ただ、作家としての黒澤はそんなに一貫性があるわけではなくて、たとえば少し後の『隠し砦の三悪人』や『用心棒』、『椿三十郎』、などでは、映画としての娯楽性の部分だけが突出して洗練されていって、泥臭いリアリズムは後退してゆく(これらの作品と『七人の侍』の違いは、スクリーンサイズの違いによるところも大きいのかもしれないけど)。これらの作品はもちろん、立派な、面白い作品で、今観ると左翼的なお説教臭さ---時代性---の感じられる『七人の侍』よりもむしろ面白く感じられるのではないかとさえ思う(実際に観直してみたわけではないけど)くらいなのだけど、それでもやはり、それによって黒澤は「作家」として自分のやりたいことを少しずつ見失っていったのではないかという気もする。本来、泥臭いリアリズム+(ロシア的)前衛の人だったのに(リアリズムは様式や定形や伝統の否定だから本来前衛的なものだ)、まちがって洗練とスペクタクルを指向するようになってしまった、というような感じ。
●『テッド』と『トランスフォーマー/ダークサイドムーン』のDVDを借りてきたのだけど、どちらも最後まで観ることができないくらいつまらなかった(だから最後まで観ていない)。
これはたまたまなのだろうけど、どちらも、オタクで経済力のない主人公に、エリートでキャリアバリバリで美人の彼女がいて、その彼女が職場のエリート上司からちょっかいを出されていて主人公ピンチ、という人物関係の設定がまったく同じなのにもうんざりした。熊のぬいぐるみ=オートボットとすれば、前提となる構図がまったく同じとさえいえる。