映画美学校試写室で『夜だから』(福山功起)。あんまりよく事情が分かっていなかったのだが、完成して最初くらいの試写会だったみたいな感じ。今ではなくなってしまったような日本映画のある系譜(『青春の殺人者』とか『さらば愛しき大地』とか『遠雷』とか)を思い出す感じの肌合いの映画だった。
そんなにたくさん観ているわけではないけど、港岳彦の脚本にはある種の強い抽象性のようなものがある気がする(ぼくが観ているのは、『イサク』『結び目』『MiLK』『ナイトピープル』)。抽象性というだけでは意味の範囲が広すぎてわかり難いかもしれないので、象徴性と言ってもいいかもしれないけど、何というのか、リアリズムとも物語とも違う何かが芯としてあって、それが強く作用して成立している感じ。で、そういうものを映画として成立させるには、その強い抽象性と拮抗するような(ある意味で「裏切る」くらいの)、映画作家のスタイルの強さ(あるいは一貫性)が必要なのではないかと感じる。スタイルというのもまた曖昧な言い方だけど、それは、たんに具体的で豊かな細部を作り込んでゆくということ以上の、細部を制御する(これもまた)抽象的な原理のような何か(分かり易い「様式」みたいな意味での「スタイル」とはちょっと違うもの)。例えば、ぼくが観たなかで、脚本の抽象性と映画作家のスタイルとの拮抗が成立しているように思えたのは、『イサク』と『結び目』だった。
『夜だから』では、女性と男性の関係が描かれているのだと思うけど、それもまた、リアリズムとして描かれているのでもないし、物語として描かれているのでもないように感じられた。そしてその「関係」に込められている抽象性を、監督がどのようなレベルで受け止めて、具体的な形としてゆこうとしているのか(その「抽象性」をどうやって押し返そうとしているのか)というところが、ぼくにはいまひとつ明確には見えてこなかった。だから、眼の前で(スクリーンで)起こっている事柄を、自分として、どのような位置で受け止めればよいのかが、最後まで定め切れないまま終わってしまった感じだった。
なので、観ながら、もし自分だったらどううするだろうかと考えていた。おそらく、最初の方で描かれていた女性の来歴のような部分は大幅にカットして、土地への馴染みも人間関係もない場所に、風景から切り離されたように寄る辺なく存在している女性の身体を示すようなカットをいくつか繋げて、あとは、女性に何か「いわく」があったことを匂わせる電話での会話を示して、すぐに男性との出会いの場面とするのではないか、と。女性の「いわく」は後にセリフで説明されるのだし、舞台の上で切り付けられる場面がなくても、腕の傷が多くを語るのではないか、と。あるいは、女性が「どういう人」であるかは、風景のなかでの立ち方や歩き方が雄弁に示すのではないか。舞台の上でダンスをする場面がなくても、女性がダンサーであること(の必然性)は十分に示すことができるのではないか。そうすると映画は、ほぼ男女(と幽霊?)の関係だけに絞られて、かなり「狭い」ものになるのだけど、そのような関係の狭さと風景とをどう関係づけるかというところに勝負をもってくるのではないか、とか思いながら観ていた。