●『風に濡れた女』(塩田明彦)をDVDで観たのだけど、最後の30分はすごく面白いのに、そこに至る50分がどうしても乗れないという感じだった。それにしても、この違いはどこにあるのだろうと不思議になるくらい(みんなが入り乱れて「やりはじめる」)最後の30分はいきなり楽しく、面白くなる。こんなに無条件に楽しい(痛快な)感じの映画は最近なかなかないんじゃないかと思うくらい、楽しい。なんでいきなりこんなに面白くなるのか、あるいは、なんではじめからこの調子で行けないのか、よく分からないのだが、とにかく、途中で潮目がかわるようにがらっと調子が変わる。
最初の50分で段取りを踏んでいるからこそ最後の30分の「突き抜け」があるとも言えるけど、でも、その「段取り」の部分がぼくには面白いと思えなかった。時々、はっとする描写はあるのだけど、基本的には、(4月25日の日記に書いた) 『昼も夜も』と同じ感想で、映画が映画をなぞっているように感じられた。最初の方にある、女性が自転車で疾走してきてそのまま海に突っ込む場面で、「いまさらこれはないでしょ」と思って醒めてしまって、その時点でぼくの見方に「意地の悪いバイアス」がかかってしまっているかもしれないのだけど。
それと、中途半端としか思えない演劇論=身体論みたいなのが入っていて、それもぼくには受け入れ難かった。特に、小屋の前で、男性が女性に演技を要求して(「うそ」とか「ほんと」とか言わせて)、それを長回しで撮っている場面は、ぼくにはまったく駄目だった。こんなにダサい形で「演劇」を入れてくる必要があるのか、と。
しかし、そのような様々なネガティブな要素が、最後の30分くらいで(おそらく、男性の「禁欲」が崩壊してくるあたりから)見事にひっくり返される。生真面目で面白くない段取りを見せられている感じから、無責任で解放的な空気に変わる。急に盛り上がって、おおーっ、いいぞいいぞ、いけいけ、という感じになる。すごく楽しい。この転換には驚いた。
(おそらく、主役の女性のキャラの社会や常識から「切り離された(寄る辺ない)あり様」を成立させることが、神代辰巳が映画をつくっていた時代にくらべて、現在では格段に難しくなっているということはあると思う。人を、様々な文脈から切り離すことで抽象化し、その抽象化によって身体的な具象性を顕示させるというやり方は、現代ではなかなか成立しにくいのではないか。人をなにもない空間にぽつんと置いただけでは、人を何からも切り離させることは出来ず、だから人物が、過去の映画をなぞっているように見えてしまうのではないか。そこで、身体を異化するために「演劇」という要素を入れざるを得なかったのかもしれない。しかしそれが中途半端になってしまった、と。)
(逆に男性は、社会から切り離されようとしているものの、実際はまったく切り離されていないというキャラで、このあきらかな「偽世捨て人」が、その「偽」性---俗性---を次第に露呈してゆくという展開は、ある程度は説得力をもつ。男性が、社会的な関係性からも女性関係や性欲からもまったく自由ではなく---男性が喫茶店の主人に「奥さんとは本当になにもないです」とか言ってるのは絶対ウソだ---そのしがらみや煩悩から一歩も出られていないことがはっきりした上で、女性が、それを破壊し、関係を組み替える媒介的存在となることで、はじめて女性の身体の具象性があらわれ、最後の30分の解放的な楽しさが生まれているのかもしれない。)
(だとすればこの映画は、『恋人たちは濡れた』を模倣しようとして失敗し、『悶絶!! どんでん返し』に倣うことで、終盤に巻き返しをすることができた、ということかもしれない。)