08/03/03

●おそらく、よしながふみは、革命など絶対に不可能だと思っているのではないだろうか。革命とはいわば鉄道模型ガンプラのような「男の子のおもちゃ」だ、と。その作品の根底に流れているのは、世界に対する(他者に対する、愛に対する)基本的な諦念であり、その諦めこそが知性と繊細な配慮を呼び寄せているように思われる。ぼくが昨日、「男性的」という言葉で言おうとしたのは、多分そのことだ。ニヒリズムとは徹底して知的であることを強いられることで、つまり知性のない者(男の子)はニヒリストたり得ない。(想像的な母親に向って)拗ねてみせるという媚態くらいがせいぜいだ。偉大な、男の子たちの映画『クーリンチェ少年殺人事件』で、唯一男性的(知性的、ニヒリスト的)な存在が、殺されてしまう女の子で、彼女は、私は決してかわることはない、世界がかわらないのと同じように、というセリフを吐く。
男性的(ニヒリスト的)であるとは、母という位置を失うことではないか。「私は誰?」という問いかけに、愛をもって答えてくれ、それによって私の存在を保証してくれる想像的な母のかわりに、その位置に(大文字の他者ではなく)自身の身体的快楽を置く。そのとき、自身の存在の証明は、ただ自身の身体的興奮とその感触によってのみ保証される。私は誰?という問いかけは、器官の快感(この感覚)という答えを得る。そこでは感覚の質こそが私を支える(愛や象徴と同等の強さをもつ、感覚の質が要請される、よいセックス、おいしいワイン、うつくしい風景、ここちよい気候...)。そして、そのような自己完結(自己充足)の砂を噛むような味気なさは、ひたすらに明晰な知性と認識によってのみ埋め合わせられる。(その時、知-言語は象徴-父から切り離されて使用されなければならない。)
世界はかわらない。象徴的な秩序は主体的には動かせない。私は、そこで偶然に与えられた位置に閉じ込められ、その場所において主体をかたちづくるしかない。だとしたら、そのようにして閉じ込められた場所で、どのようにすれば、そこで、そのように、かたちづくられてしまった主体(私自身)に対して、最も繊細な配慮が可能になるのか。(つまり、よりマシに生きられるのか。)
私が、ここに閉じ込められ、「ここ」であることのために「こうなるしかなかった」主体を抱えているのと同様に、他者もまた、「そこ」である限り「そうなるしかなかった」主体を抱えている。であるのならば、その「場所」の違いによる主体の違いに対しても、それが共感不可能なものであっても、最大限の配慮が払われなければならない。これは、ニーチェ的な「諸力」の強度(狂気)に間違っても触れてしまうことのないように、周到に張り巡らされた防衛装置でもある。例えば『大奥』という作品を起動させ、駆動している基本的な感情(モチーフ)とは、そのようなものであると思われる。高度にポストモダン的な感情。それは意外にも、プラトン的なホモソーシャル的世界に近づく。よしながふみの登場人物は、男性も女性も「男性的」である。(ただ、ニヒリスティックな世界では愛が蒸発しているので、その根底にあるのは、プラトニックな朋輩への愛ではなく、自分とは異なる他者への配慮なのだが。自身とは異なる他者との偶然の邂逅を運命として受け入れ、その他者への配慮を、事後的、意識的に愛へと育て上げ、愛を人工物として加工し直す作業、というべきか。)
●付け加えるならば、ぼく自身は「男の子的なもの」を必ずしも否定しているわけではない。男の子的ながさつさや無神経さによってしか取り結ぶことの出来ない、世界との特別な関係というものがあり、ぼくはいまでもそれに魅了されている部分があることを否定できない。(それは勿論、無自覚であることによってのみ許される、甘ったれた暴力なのだが。)それは例えば、悲劇的な様相としては『クーリンチェ少年殺人事件』などにあらわれ、楽天的様相としては『ビーバップ・ハイスクール』や『ワルボロ』などにあらわれている。