08/03/04

●昨日は、京橋のギャラリー・テラシタで、今澤正「New Works」展を観た。(3/29まで、日曜休み。)
今澤くんは友人で、友人の作品についてこういう言い方をすると身内誉めっぽくなってしまうのだが、今澤くんは良い画家なのだなあと改めて思った。今澤くんの作品は、まるで漆塗り職人のような高度な技術を必要とするもので、しかし、自らが構築し獲得したその高度で独自の技術によって逆に身動きができなくなっている感じが最近の作品にはあって、そのことは当然作家自身も自覚していて、ここ数年は特に、制作するのがとても苦しそうだった。
今回展示された作品は、おそらく、そのような状態から脱することがかなり強く意識されたもので、そしてそれはかなりの程度で成功していて、ずっと今澤くんの仕事を観続けている眼にも、とても新鮮なものとして映った。しかし、その新鮮さ、あるいは、ある種のこう着状態からの脱出は、今までになかった新しいことをやったとか、今までやってきたことを壊したとか、そういうことでは全然なくて、むしろ原点に返ったというか、いや、こういう言い方は後ろ向きで違うかもしれなくて、より自分自身に忠実になることによって、改めて新鮮さを獲得した、という感じなのだった。
作家が「鮮度を保つ」というのは、つまりこういうことなのだなあと思った。今までしなかった新しいことに挑戦するとか、今までの自分の殻を破って自身を拡大させるとかいうのではなくて、前よりもより一層、自分自身に忠実になることで、その度に何度でも、新しいものとして改めて「自身の資質」を発見し直す、ということ。再び、三たび、発見し直された「自身の資質」とは、それ以前のものと同一のものの回帰ではないし、そのたんなる焼き直しでもなく、その間の制作の時間や技術的な試行錯誤の厚みによってより鍛え上げられ、あたらしく生まれ変わった「それ」なのだ。
結局作家がすることは、毎回同じだけど違う作品をつくること、あるいは、毎回違うけど結局は同じ作品をつくることなのだ。だがここで、「同じ」とか「違う」という言葉の意味は、通常の意味とはかなり違っている。毎回同じだけど、同じであることによって、その都度新しいものとなる、とか、毎回違う経路を辿るけど、結局はこの地点こそが望まれているらしくて、ここに来てしまうのだが、しかし、同じ地点でも、そこへ至る経路が違えば、やはりその都度新しいのだ、というようなことだ。
今回展示されている作品を観て、ぼくは、今澤くんが学生の頃につくっていた、板の上に透明な茶色系の色を重ねて、画面の中心部分に昆虫のような形態がぼんやりと浮かびあがる作品と、99年から2000年頃につくっていた、今の形式の元になるような作品のことを思い出していた。つまり今澤正という作家は、過去のその二回と、今回とで、三たび、自分の「資質」を、新たなものとして発見し直すことに成功しているように、ぼくには感じられるのだ。
学生の頃の作品と今回の作品とでは、作風や形式が全然違うし、なにより完成度に大きな差がある。しかしそれでも、ある形態なり色彩なりが、夢と現実との狭間にあるような、捉えどころの無い場所からふわっと浮かび上がってくるような感じとか、そのあらわれ方のやわさかさの感触とか、その、浮かび上がって来た形態なり色彩が眼にあたえる圧力や抵抗の強さや肌触り(眼に与える肌触りというものがあるのだ)などに、共通するものを感じるし、この感じこそが、今澤正を「画家」にしているのだなあ、ということを感じる。
今まで、透明な層を何層にも重ねることで実現されていた複雑な色彩は、今回の作品では、不透明な色彩の、割りあいと少ない層の重ねあわせにとってかわられている。そのことは、画家が、色彩間の響き合いの調整と判断の精度において、より自信を増したことによって得られた、ある種の単純化であるのだが、その不透明な色彩の組み合わせのバランスによって、どちらかというと鈍いと形容されるであろう色彩が、やわらかであると同時に非常に強い輝きを発することになる。そして、形態として見えるか、色彩のひろがりとして見えるかが微妙で、同時にどちらでもあり、どちらでもないような、色面の形と面積の絶妙な調整と、どうやったらこんなことが出来るのかというような高度な技術を感じさせるエッジの処理とが、その輝きをより非現実的なもの(現実のなかには場所をもてないようなもの、異次元から突然にあらわれたようなもの)にしているように思われる。複雑な二種類のグレーとの対比によって、強く、やわらかく輝くオレンジ色は、まさに、絵画によってしか得ることの出来ない「光」を感じさせる。
(あと、今までの今澤くんの作品と比べるとサイズがやや小さめなのだが、このくらいのサイズが、ちょうど良い感じに思えた。)