08/03/05

●昨日書いた、今澤正の作品は、ぼくがこの日記でいつも書いている「絵画」についての考え方とはほとんど一致していない。つまり、ぼくと今澤くんとでは、絵画でやろうとしていることが全然ちがう。(あたりまえだけど。)
今澤くんは、わりと忠実なグリーンバーグ主義者みたいなところがあって(といっても、今澤くんはグリーンバーグに興味などないと思うし、読んだ事もないだろうけど、結果としてそうなのだ)、岡崎乾二郎が的確に指摘しているのだが、グリーンバーグにおいて(ということはつまり、アメリカ型フォーマリスムにおいて)大きな問題は知覚と想起とを厳格に区別して、想起なしに純粋な知覚としての作品をたちあげるというところにあった。抽象表現主義の作家がいわゆる「形態」を排除して、図と地とが一体化した「空間」のみを提示するような作品をつくったのは、形態がみえると、必ず人はそこに何かを想起してしまうからだ。例えば、日の丸はたんに白い地に赤い円形が描かれているだけだが、それを人は日の丸と呼び、そこに太陽のイメージをみる(同時に社会的なコンテクストも呼び寄せる)。あるいは、画面にただ三角形を逆さにしたような図を描くだけで、人はそれを杯のようなものとして観てしまう(同時に、杯にまつわる様々な神話的物語も呼び寄せる)。つまりそれは純粋な知覚(視覚)ではなく、知覚+想起となってしまう。
なぜ想起が混じるとダメなのかというと、イデオロギー的にはいろいろあるけど、要するにそれは作品の外にあるもので、作品の外にあるものの力を作品が借りることで自律性が弱くなるということだ。もっと簡単に言えば、形態がなにかしらの具体物と結びつくことで意味が確定してしまうと、そこで「見ること」が解決してしまって(あるいは見ることから問題が逸れてしまって)、見ること(知覚すること)の宙づり性(による緊張)が消えてしまうということだ。宙づりの解決=弛緩が、前衛をキッチュ(俗)へと堕落させる。(このようなモダンな作品に対して、ポストモダンの作品は逆に、知覚を軽視して、想起=文脈を重視する傾向をもつ。)
しかしこれはあくまで公式的な見解で、実は真の狙いはほかにあるように思う。知覚から想起が排除されて、純粋な視覚性がたちあがるというのはどういうことか。その時、知覚は、何かについての知覚ではなくなり、現世にある何かしらの具体的物質から切り離された知覚そのものとなり、つまり知覚=夢(想起)というのとほとんど同じ状態が出現する(排除された想起は知覚そのものとぴったり重なって回帰する)。作品(物)からヴィジョン(像)を読み取るのではなく、見えることがそのままヴィジョンとなる(物と像とが一体化することで物が消える)。かげろうのようにたちあがる作品。これはつまり、物質から解き放たれた精神の比喩であり、存在することで少しも失墜していない純粋な「存在」そのもののあらわれの比喩であり、世界の非物質的なあらわれ、つまりは恩寵そのもの、光そのものということになる。これはフォーマリスムというよりは神学的(プロテスタント的?)であり、グリーンバーグが、作品が部分に分解することのできない「単一性(一挙性)」としてあらわれる状態の実現に理念として固執したのにも、このような意味(世界の意味が一瞬にして開示される恩寵)があると思われる。(グリーンバーグを愚直に読むことしか出来なかったミニマリズムの作家は、このことが理解できなかったから、フリードから批判された。)
今澤くんの作品は、このような状態を、(下手をすればニューマンやルイスよりも上手に、かつコンパクトに)実現させてしまう。しかし、ほとんどグリーンバーグの理念の実現であるかのようにみえる今澤くんの作品が、グリーンバーグからズレる一点があり、それはその作品にあきらかに「家」を思わせる形態がみえることだ。それは、単純には図像にみえないような、非常にデリケートな操作が施されてはいるが、しかしそれでも、誰がどう見ても「家」に見える。
この、最後の一点の、グリーンバーグとの微妙かつ絶対的なズレこそが今澤くんの作品の非常に面白いところだと思う。この一点で神学からこぼれ落ち、崇高な恩寵は俗っぽいキッチュへと転落しかねない。しかしまた、作品の非常に高度なありよう(色彩の質の高さ及び、見ることを決して確定させない配慮)は、それを簡単にキッチュに見せることもない。異次元から突如出現したかのような、非物質的な色彩(光)の崇高ともいってよいであろうあらわれと、形態のもつ子供向けの玩具のような親しげなくだけた表情とが(近付き難さと親しさとが)、平然と両立し、不思議にブレンドされているところが、なんとも面白いのだ。
●これは昨日の夜ことだけど、人との待ち合わせのために新宿へ出て、時間より微妙に早くついてしまったので、待ち合わせの場所とは少しズレた、大きな通りが交差する十字路のところのガードレールに寄りかかって、ビル群の窓の灯りやネオン、恐いような勢いでぐんぐん歩く人たち、甲虫の集団のように見える車の群れなどを、排気ガスや花粉を流してくれるかのような小雨のなかで、やー、新宿だなー、とか思いながら口をぽかんと開けて(上を向くから口が開く)、音というより振動のようなエンジン音や足音を浴びつつ、イマイチ現実感のない夢のような感じで眺めていたのだけど、その十字路の角に大きなそば屋があって、その前に何台もの自転車が停めてあって、白衣に白い頭巾の店員が、大きなお盆にお椀をびっしり並べ、さらにその上にまたお盆を載せて、そこにもびっしりとお椀を並べ、溢れないようにその二重のお盆全体をラップできつく巻いたものを片手で持って店から出て来て、それを肩に担いで自転車で出前に出て行き、しばらくすると別の店員が帰ってきて、また出て行き、また帰って来て、何人の店員でまわしているのか分からないけど、けっこう頻繁に自転車が出て行ったり帰って来たりしていて、邪魔にならないようにそこからちょっと離れて、その動きに魅了されてずっと眺めつつも、前に新宿でバイトしていたこともあったけど、こんなに忙しないところではもう絶対働きたくないなあ、と思っていたのだった。