08/05/07

●お知らせ。「群像」6月号のREVIEW ARTというコーナーに「2つの異なる光--今澤正と福居伸宏」という文章を書いています。
●目の前に物があって、今、それを知覚しているということの絶対的な強さというものがある。テーブルの上にはコーヒーの入ったカップがあり、ぼくはそのコーヒーの色を見ているし、その香りを感じている。カップの淵にはコーヒーのしずくが溢れた跡がついている。すぐ脇にはハンガーに吊るされたジャージがあって、その赤い色は眼の隅にちらちらと入ってくる。この文の連なりを打ち込んでいるパソコンからはブーンという音が聞こえている。カーテンのない磨りガラスの窓からは外からの白い光が射している。今、見ているコーヒーの色、口のなかから鼻へとひろがるその味と香りは、それを思い出しているよりもずっと強い刺激、高い精度で、ぼくの感覚に与えられている。
美術作品がオリジナル(一点モノ)であることの意味は、ベンヤミンが言うようにアウラがどうしたということよりも、たんに物そのものがもつ絶対的な情報量の多さにある。複製された絵画は、その色彩をいかに正確に再現していたとしても、油絵の具の層構造までを再現することは出来ない(少なくとも今のところは)。その物を前にしている時に私が感じていることの全てを、私は意識的、分析的に知り、記述することが出来るわけではない。意識や分析は常に近似値であり、偏向があり、その意識や分析を図として浮かび上がらせる地そのもの(世界と身体)は、常に意識・分析からこぼれ落ちる。だから、感覚の厳密さを問題にするのなら、その絵を見た時の感覚をもう一度再現しようとするのならば、再びその絵の前に立たなくてはならない。
(勿論、意識や分析、あるいは言語のもつ「粗さ」によってこそ、物の同一性、私の同一性が保たれ、つまり、世界の安定と私の安定が保たれる。厳密に物質的なレベルで言えば、昨日の私と今日の私は同じとは言えないし、昨日のこの絵と今日のこの絵とも同じコンディションとは言えない。しかしまあ、だいたいのところ「同じ」とみなしても不都合はない、と。この「だいたいのところ」が作動しないと、世界は混沌となり、私は崩壊する。感覚の厳密性への追求と、「だいたいのところの成立(まあ、キャラクターといってもいいかもしれない)」をどのように両立させるのかは、実際に作品をつくる者としては、常に実践的な問題としてある。)
●しかし同時に、知覚と記憶とを切り離して起動させることは出来ない。知覚は常に記憶を幾分かは巻き込んだかたちでたちあがる。私は、目の前にいる「この人」が好きなのか、それとも「私の好きなタイプ」が好きなのかを、厳密に分けることは出来ない。それは常に両方でワンセットとなって成立する。
あるいは、二十世紀中盤の前衛芸術は、記憶を排して純粋な知覚のみで作品を成立させようとした。(記憶とはつまり歴史であり、歴史によって形作られた社会的階級や階層でもあるから、それを一回チャラにして平等化するため。)しかし、このように純粋化(抽象化)された作品を見るためには、実際のところは、目利きとして身体化された美術史的記憶が必要とされる。知識をひけらかす饒舌な教養-記憶は退けられても、身体化された暗黙の教養-記憶までを退けることは出来ない。というかそもそも、このような次元での記憶を失うのならば、作品というもののもつ意味そのものが失われてしまうだろう。
●そもそも絵画は、何かが描かれるものだ。牛だったり人だったり林檎だったりが描かれる。物質としてのキャンバスと絵の具の構造、それによってたちあがる色彩と形態の構造、であると同時に、そこに描かれた牛なり林檎なりの状態、という次元がある。
もし、牛を見たことがない人なら、そこに描かれているものを知ることが出来ないのだろうか。しかし、牛の絵を見ることで牛を知るということもある。牛を見たことがなくても、例えば猫や象なら見たことがあるかもしれない。そして、その猫や象の記憶と、絵に描かれた牛の状態から、牛というもののイメージが、その人の頭のなかでぐっと動きだすことがあるかもしれない。それは実際に牛を見た時に得られる感覚とまったく同じではないだろうが、幾分かは重なりあい、あるいは、牛の感触の核心のようなものに触れているかもしれない。絵を観た牛を知らない人の記憶にはたらきかけ、「牛の感触」を導き出すのは、たんに描かれた牛の図像だというだけでなく、その図像を成立させている色彩と形態の構造であり、その物質的基盤であるキャンバスと絵の具の構造であり、それが、今、目の前にあるということの強さなのだ。眼の前にあるキャンバスと絵の具という物質の現前こそが、そこにはない「牛の感触」を導くのだ。
(だから、当然のことながら、絵を観る時に必要な記憶とは美術史的なものだけではない。というか、美術史的な記憶にしかはたらきかけない絵は、きわめてか弱いものでしかない。絵を観る人は、その人自身に蓄積されたあらゆる記憶を総動員して絵を観るのだし、絵は、観るひとのそのような記憶までもを巻き込むことで、目の前にはない別の何事かを現前させる。誰もがその人のもっている限定された記憶からしか目の前のものを判断できないが、しかし知覚によって記憶が刺激され、知覚と記憶が混じり合うことで、その限定を越えることは可能なばずなのだ。そうでなければ「作品」に意味などない。)
●絵画にとって、それが目の前にあることの強さは絶対的である。しかしそれは、目の前にある物質によって与えられる感覚そのものの強さだけが重要なのではない。物質は同時に媒介でもあり、常に目の前にある以上の何かを人の頭のなかにたちあげるだろう。しかしそのためには、目の前に実物があるという、知覚の厳密さという媒介を必要とするのだ。