●横浜で丸山純子さんとトーク。一時間ちょっとで一年分くらい喋った気がする。人前で、何かしらの言葉を口にすることを強いられる場にいる時(とはいっても、本当はもっと堂々と沈黙をつづけてもいいはずなのだが、なかなかそこまで度胸はないのだった)、相手との関係もあるし、言いたいと思っていたことが十分に言えるわけではないし、というか、何か言いたいことが明確にあるわけではないままに喋り始め、喋りながら自分で、この話は一体どこに行こうとしているのか探りながら喋ってゆくことになり、話の流れはある方向に行くのだが、本当はそんなことが言いたいわではないと、一体自分は何を言っているのかと思いつつ、よくわからないどこかへなんとか着地(漂着)したりすることになる。
でもそれは、何も話している時のことだけではなく、書いている時でも描いている時でも同じと言えば同じで、ある文を書き始めた時には、その文がどこに着地するのか知らないし、ある線を描き始めた時に、その線がこれから描くべき軌跡を知っているわけではない。知らないからこそ、書いたり描いたり話したりする。だからきっとこれでいいのだ。
●ローラ・オーウェンスなどの最近の具象的なペインティングでは、もののイメージと、イメージのイメージと、記号のイメージとが同一平面上に混じり合っていて、そのことが空間を歪ませている。歪ませているというか、その混同を可能にする特異な場として、絵画空間が組織されている感じがする。記号のイメージはともかく、もののイメージもイメージのイメージも、絵画に描かれるものはどのみちイメージなのだから、どこに違いがあるのかという疑問もあるだろうけど、そこにはイメージとしての精度と密度と切実度の違いがまずあり、さらに、イメージに対する、イメージを操作したり受け取ったりする人の態度の違いがあるだろう。人は、もののイメージに対する時とイメージのイメージに対する時とでは明らかに異なる対応をするが、しかし同時に、それらを常に混同しもする。そこにはいわば、「ものまね」と「ものまねのものまね」との違い(肖像画と似顔絵の違い)というくらいの違いがあり、しかし、そうである程度にその違いは厳密に考えればあやしい(ものまねとはそもそも、ものまねのものまねのことなのではないか?とか)。
もののイメージとイメージのイメージとが同等の強さで拮抗するということは、最近の絵画に限らず絵画の基本だとも言える。例えば聖骸布を絵に描くこと、ルネサンス絵画の複数のフレーム、マティスの絵の装飾模様と人体のボリュームの拮抗等々。しかしそれはもはや、複数の異なる次元の拮抗というよりも、本来混じり合わない(しかし実はその厳密な区別はあやしい)ものたちの、なし崩しの混同という形になっているかのようだ。それは、例えば複数の異質な情報が同一平面上に並立されるといったフラットベッド(空間の消失)であるよりも、あらたな(位相的に歪んだ)幻想的空間(というより、超リアルという意味での超現実的空間)の生成という自体であるかのようだ。
そして、絵画においては、その幻想的空間は、三万年前とまったくかわらずに、物質によってかたちづくられる。物質がイメージを生成する空間を保証し、物質のモンタージュがイメージを産む。つまり、イメージという位置をもたないものが、物質によってある位置に封じ込められ、その場所にフリーズされる。そして、絵を描くのは相も変わらず「手」なのだ。絵の具の操作は、イメージの操作とはことなる次元にある。正確に言えば、手は、絵の具のイメージに触れ、絵の具のイメージを媒介としつつ絵の具という物質にはたらきかけ、(「イメージ」を介した)「物質」への働きかけ−変質こそが、密度ある絵画的イメージを生成する(だから、同じ技法を用いても、描ける人と描けない人がいる、技術は操作対象である物質だけでなく、それを用いる人−人体−物質をも変質を強いる)。このような出来事そのものが(つまり「絵画の誕生」という出来事そのものが)、物の次元とイメージの次元との混同であり、混乱でもある気もするのだが。それはともかく、ゆえに、物質のモンタージュ=絵画的イメージの生成は常に手仕事である。基底材が、洞窟の壁であったのが、キャンバスというフラットな平面にかわっただけで、定着材や展色材がかわったとは言え、絵の具とは結局顔料のことなのだし。