●昨日、人から見せてもらった『安井曾太郎表紙画集1・2』という本がすばらしかった(昭和二十九年と三十一年に文藝春秋社から出た本)。安井曾太郎の、本筋の仕事としてのタブローではなく、雑誌や本の表紙のための仕事を集めた画集。画家にとって、どちらかというと気軽な、副次的な、そして多分にお金のための仕事であるだろう作品がたくさん掲載されている。いままで、安井曾太郎はすごく上手い画家だとは思っていてもそんなには好きではなかったのだが、この画家に対する見方がまったく変わった。上手くて、センスがよく、果敢な実験への意欲と意志があり、しかも軽やかで、茶目っ気があり、自由で、上品で、かわいくもある。絵を良く知ってる人であるからこそ、決してその「知っていること」の範囲内だけで絵を仕上げてしまわないという、探求−遊戯の軌跡がみられる。
そうなると逆に、なんでこんなに自由な仕事をする人が、タブローとなるとああいう風になるのか、そこに働く力はなんなのか、ということが気になるのだが。例えば、マティスのもろパクリみたいな絵もかなりこの本には載っていたのだが、それらの作品によって、この画家がいかにマティスを深く理解していたのかが分かる。でも、じゃあなんで、タブローだと、そこから外れた、要するに、「日本の洋画」風としか言えない何かになってしまうのか。この人は「分かってて」、その上で「そっち」に行ってしまうのか。無茶苦茶上手い人なんだし、もっとちがうところに行けるはずで、もっと自由になれるはず(実際、別の場所−表紙画では出来てるんだから)、と思うのだが、本チャンのタブローとなると、どうも方向がかわってしまう。そこには一体どういう力が働いているのか。
●もののイメージ、イメージのイメージ、記号のイメージと言うよりも、ものとしてのイメージ、イメージとしてのイメージ、記号としてのイメージと言った方がいいのかもしれない(知覚的イメージと想起的イメージとがあると思うけど、ここでは知覚的イメージについての話)。人が認識するものはすべてイメージに過ぎないのだが、しかし、我々は、イメージに階層をつける。その階層は仮象でしかないが、そうしなければ(その階層が有効に機能しなければ)生きてゆけない。ある人が実際にそこにいるというイメージと、写真や映像によってあらわれるその人のイメージとを区別出来なければ生きてはゆけないし、餅のイメージと絵に描いた餅のイメージとを区別できなければ生きてゆけない。餅も絵に描いた餅も、どちらもイメージでしかないとしても、餅のイメージは腹を満たし(身体的に)生きる糧となるが、絵に描いた餅は(あくまで身体的には、だが)腹を満たさないし、生きる糧とはならない。イメージの「わたし−身体」に対する作用が違う(そこには死の問題が絡む)。他者のイメージも同様。眼の前にいる誰か(という、ものとしてのイメージ)は、常に、とつぜんわたしに襲いかかり、わたしを殺すかもしれないという可能性のあるイメージであるが、写真や映像のなかにいる誰か(イメージとしてのイメージ)が、わたしに襲いかかってくることはない(逆に、わたしは眼の前の人−イメージを殺してしまうかもしれないが、写真のなかの人−イメージを殺す心配はない)。
とはいえ、眼の前にいる誰かがわたしに向けるほほえみと、写真のなかの誰かが(わたしに向けているわけではないが、そのように見える)ほほえみとでは、「わたし−身体」に対する作用に本質的な違いがあるのだろうか。勿論、眼の前にいる誰かがわたしに向けてほほえんでいることと、写真のなかの誰かが誰にでもなく微笑んでいることとのイメージの階層の違いを区別出来ないのならば、その人は社会的な場面で生きてゆくことは出来ないだろう。餅がわたしの腹を満たしてくれるように、ほほえむことで好意を示してくれる誰かはわたしに利益をもたらしてくれることがあるかもしれない。だが、写真のほほえみはわたしに対して具体的な利益をもたらすことはない。とはいえ、その「ほほえみ」がわたし−身体−精神に与える効果においては、眼の前に実際にいる人のものと、写真のなかのその人のものとに、本質的な違いがあるとは言えないのではないか。だとすれば、「他者のほほえみ」のイメージの階層の違い(区別)は、ただ社会的な場面、そのような場の維持のためだけに必須なものであるのだろうか。
●ものとしてのイメージは、あくまでもの「として」機能する、経験的世界のなかで「もの」として振る舞うイメージということに過ぎず、それは必ずしも物質的基盤(この世界の存在)に保証されているものではない。その意味で、ものとしてのイメージと、イメージとしてのイメージとの間には、機能(妥当性のおよぶ範囲)の違いがあるだけで、そこに根本的な違いを見出すことはできない。経験的に(あるいは共同主観的な場において?)、そのイメージは「もの」として扱うのが妥当であるか、それともイメージとして扱うことが妥当である(上手く機能する)のか、ということに過ぎない。それらは、われわれの身体−頭−こころの内部では同等なものとして、同等な強さで存在し、同様の(わたしの思う通りにはならない)振る舞いをする。
ぼくはここで、ものは存在せず、ただイメージとその機能の区別だけが存在すると言いたいのではない。そうではなく、通常、ものとして機能する、(経験的な次元において)そうみなしても十分に妥当であると言い得るイメージであっても、それによって物質的な(存在論的な)基盤が保証されるわけではない、ということだ。だとするならば、イメージとしてのイメージであるからといって、必ずしも、それが物質的な基盤から遊離しているとは限らないということも言えるのではないか(例えば幽霊や怨念)。
とはいえ勿論、ここで、ものとしてのイメージとイメージとしてのイメージの差異が消失するということでもない。現実的な妥当性にまつわる機能の違いは依然として残りつづける(それが究極的にはわたしや他者の生−死に係わるものである以上、その違いを完全に消すことは出来ない)。ただ、その現実的な妥当性−機能の向こう側にあるもの、そのイメージを生み出し動かしている「力そのもの」の感触に触れたいし、そこにあるものこそが「現実」だと言いたいのだ(それは結局、死の側にあるものなのだろうか、と言ってしまうと神秘主義になる、しかし、神秘主義的形象を避けることが本当に正しい−妥当なことなのだろうか、とも思う)。
●今、眼の前に見えているものを、既に自分が知っている、それに似ている他の何かにあてはめることによって理解し、既に自分の頭のなかにある図式に従って整理しようとするのは、おそらくもっとも安易で脆弱な振る舞いであろう。それはかぎりなく知性から遠い。
トークの準備などのために中断していた「岬」論のつづきを再開しようと思ったのだが、今日は疲れていて、そのなかへ入り込めなくて駄目だった。