マティスの「赤い部屋」(http://www.allposters.co.jp/-sp/-Posters_i941619_.htm)では、二次元には収まらず三次元へとせり出してきそうな装飾模様と、平面的に処理され半ば二次元的に表現された三次元の事物とが、空気よりも重たい密度と触感を感じさせる赤のひろがりのなかで明確な位置からはなれて響き合うのだが、しかし、室内においては、装飾模様は寒色と黒によってあらわされ、事物は暖色と白によってあらわされ、区別はされている。しかし、テーブルを整えている人物だけは、黒い服と白いスカート、そして暖色の頭部をもっていて、実(事物)と虚(模様)とを統合する役割をもっている。つまり彼女は、半ば事物であり、半ば模様であるという両義的な存在なのだ。そして彼女は、テーブルを整えている(目覚めている)ようでもあり、眠っているようにも見える。この両義性が、この絵に描かれている世界が、現実の世界であるようにも見えるし、彼女の夢のなかの世界にも見えるというような、どちらとも決定できないものにしている。マティスの絵は、基本的にリアリズムの範疇にある。そこには重力があり、ものの厚みがあり、最低限の遠近法も成立している。たとえばシャガールのように、人が宙に浮いたり、縮尺がでたらめになることはない。にもかかわらず、というか、だからこそ、シャガールなどよりもいっそう、その世界は捉えがたく、夢のような感触が生まれるのだ。
『ドリーマーズ』(柴崎友香)における一人称の話者《わたし》は、この絵に描かれた女性と同様、いくつもの分離した世界を結びつけ、かつ切り分けもする媒介として、いくつもの分離した次元が同時に並列する世界を立ち上げるための基点として、作用しているように思われる。柴崎友香の小説の記述は、一応近代的なリアリズムの書法の枠内にある。空間や時間が歪むことはないし、ある人物の内省のなかにいきなり別の人物の内省が混じりこんでくることもない。そこは(とりあえずは)きっちり切り分けられている。『ドリーマーズ』所収の作品はどれも通常の一人称として読んで、ひとまず問題がない形に収まっている。しかしそうであることによってこそ、世界の細部がそれぞれの収まるべき位置を危うくされている。
他人の視線は他人のものであるが、しかし半ば私のものでもある。向かい合って話している相手がどこを見ているのかは、相手の目を見れば分かる。あるいは、その相手がいきなり視線を動かすと、思わずそれにつられて私もそっちを見てしまう。視線というものは多分に自他未分化なところがある。しかしとはいえ、他人のまなざしから、他人が何を見ているのかはわかるが、他人が見ているイメージそのものは知ることができない。他人の視線は半ば私のものでもあるが、その背後にあるもの、結像されたイメージ、そのイメージとともに想起しているかもしれない別のイメージまでは、私のものではない。柴崎友香の小説は、このような事実に取り付かれているといってもいいほど、こだわっているように思われる。
《聞き返しながらも隣の競馬新聞のおっさんに気を取られているえみ子に、周りのものがどんなふうに見えているのか、わたしは知りたかった。えみ子の頭のうしろに、私が行ったことのない場所がひろがっていて、えみ子は常にその場所の広がりと記憶を持ち続けたまま、わたしやおっさんや高島屋や信号機を見ているのだと思った。》(「ドリーマーズ」)
ロンドンから帰ったばかりのえみ子は、ロンドンの記憶とともに、《わたし》が見ているのと同じ、おっさんや高島屋や信号機を見ている。《わたし》は、えみ子がそれらを「見ているところを見る」ことで、その背後にあるもの、えみ子の記憶とまじりあった風景のことを考えている。えみ子が見ている《わたし》を含んたこの風景と、《わたし》が見ている、えみ子を含んたこの風景。その二つは分離している。しかし、《わたし》が見ている、えみ子を含んだこの風景には、《わたし》が「えみ子が風景を見る」ところを「見る」ことによって考えた、「えみ子が見ている《わたし》を含んたこの風景のこと」も含まれている。《わたし》にはその内容はわからないが、えみ子の頭のなかに「それ」があることを感じることはできる。だから「それ」は《わたし》が見ている風景のなかに含まれている。
この感覚が見事に形象化されているのが「寝ても覚めても」で、地上二十階にあるカフェで高所恐怖症の北井さんという広報誌の記者からインタビューを受けている場面だと思う。《わたし》は北井さんの質問を受けながら、そのうしろにある窓から、台風が接近していて急激に変化する空や新宿の風景を見ている。
《「気になりますか? お天気」
北井さんの声で、視線を戻した。眼鏡に、わたしの背後にある反対側の窓の外の光が反射していた。
「すみません、あの」
わたしは、眼鏡の奥の細い目を探りながら言った。
「あのー、晴れてたらここから富士山見えるんですよ」》
北井さんは、その視線によって《わたし》が窓の外を見ているのがわかる。だから天気を気にしているのだろうと推測するのだが、実は《わたし》は、天気がよければそこから見えるはずの富士山のことを気にしている。北井さんはこの言葉で、目の前の人物(わたし)の頭のなかに、今は見えていない風景が意識されているのを知るだろう。北井さんは高所恐怖症だから窓の外は見ていないが、その眼鏡に映る光から《わたし》は、自分のうしろにある窓から見えているはずの反対側の風景のことも想起する。そのことによって、一人称の記述に、見えていないはずの《わたし》の背後の空間のひろがりが導入される。そしてそこであらためて《わたし》は北井さんの眼鏡の視線を探るのだ。この短い断片に、これだけのことが詰め込まれている。
ここで、最初に引用した「ドリーマーズ」と、次に引用した「寝ても覚めても」では、《わたし》の位置が移動しているのに気づくだろう。最初の場面で、えみ子の頭のなかを知りたいと思い、想像しようとするのは《わたし》であるが、次の場面では、《わたし》の視線から「天気を気にしている」のかと想像し、実は富士山を想起していたのだと知るのは北井さんである。つまり、最初の場面での《わたし》の位置は、次の場面では北井さんに移動し、《わたし》はえみ子の位置に移動している。このような位置の移動は、一人称の記述のなかに《わたし》の外側を導入するのにきわめて重要な役割をもっている。たとえば「ハイポジション」では、三階にあるカフェを基点としつつも、そこから地上を見下ろす視点と、地上から三階のカフェを見上げる視点が交錯し、さらに、三階のカフェから十三階にあるオフィスを見上げる視点と、十三階のオフィスから三階のカフェを見下ろす視点も交錯する。そのような視点の交錯(交換)こそが、《わたし》の夢の中に出てきた《岡崎くん》が、現実の思わぬ別方向から改めて作中に侵入してくるというこの作品のオチを準備し、それに(たんに上手いオチということを超えた)説得力を与えているのだ。
このような視点の交錯(交代)は、この作家の話者《わたし》が、いつも、今、見えているものと同時に、そこでは見えていないもののことを気にしていることとも関係する。たとえば「夢見がち」の《わたし》は、友人たちと焼肉を食べにゆくために電車に乗りながら、あるカフェのことを想起する。
《ちょうど、電車を眺めるためにときどき行くカフェのあたりにさしかかるところじゃないかと思って、わたしも視線をさまよわせた。高架の線路とちょうど同じ高さに当たる、ビルの三階にあるそのカフェは、線路のすぐそばにあって電車が今までに見たことがないくらいよく見えるということに、去年の秋にその隣にあるクラブに行く前に晩ごはんを食べにきて偶然気がついた。そのときは夜で、窓の外が度々青白く光るので雷かなと思ったら、パンタグラフが架線をこするときに出る火花だった。いつも乗っている電車の天井の上であんなにきれいな閃光がきらめいていることを、たぶんみんな知らない。》
ここで《みんな》とは、一緒に電車に乗っている友人たちのことではなくて、電車に乗っている一般的な人々のことだ(この作家の登場人物は「自分だけが知っている」ことに優越感をもったりはしないのだ)。友人たちにはそのカフェのことは共有されていて、ただそちらへ視線を送るだけで自然と会話はその話題となる。ここでは、電車がある地域に差し掛かったことで、そのあたりにあるカフェのことが思い出され、そのカフェの在り処を目で探すという行為を通じて、そこから見られるパンタグラフの閃光が思い出され、それによって、今、自分たちが乗っているこの電車の天井の上でも、その閃光がきらめいているであろうことが意識される。しかし、この小説で描かれている「現在」においては、外はまだそれほど暗くはないはずなのだから、この閃光のイメージは、正確には今、ここにはあてはまらない。そもそも、そのカフェから見える電車は《京都線》であって、《わたし》たちが乗っている《大阪環状線》ではない。だから、今、ここでの知覚と、かつての記憶の想起が交じり合ってできたこの場面のモンタージュは、かならずしも正確はものではなく、「現実」からすこし別の世界へと、やや「夢」に近い世界へとずれ込んでいる。
《あのカフェの窓際の席から見渡せる、緩やかにカーブした二本の線路の茶色とその向こうに見える観覧車の赤が頭に浮かんだ。それでなんとなく、あの席に座っている自分が見えないはずのこのオレンジ色の電車を見ているところも想像してみた。》
ここで想起されるイメージは、《わたし》の頭の外側にある現実とは正確には対応しないが、かといって《わたし》が好き勝手に考えた空想とも違って、世界そのものを素材としており、それと根本的に矛盾するものではない。それは、ある実質をもった現実として十分に妥当なものであり、それは《わたし》のなかで現実と同等の重さをもって生きつづけるだろう。ここでひとつ、《わたし》のなかで新たな現実が構成され、生まれ出たのだ。
(とりあえず今日はこのへんまでで。つづく。)