●『ヴィレッジ』の盲目の女性は、村の外で監視員の青年と出会い、彼から薬を得て、再び村へと帰ってゆく。18日の日記でも書いたが、『ヴィレッジ』で唯一「世界の厚み」を感じさせるのがこの青年の存在で、彼にとっては、いきなりあらわれたこの女性のイメージの強さこそが超越的な「謎」として世界の厚さを、その即物的な存在への信を支えるほどに強いものであるように思われる。そして、この女性の出現と帰還とを、青年の側から描いたのが『レディ・イン・ザ・ウォーター』だといえるのではないだろうか。そして、『ヴィレッジ』の盲目の女性も、『レディ・イン・ザ・ウォーター』の海の精も、同じプライス・ダグラス・ハワードによって演じられている。
つまりそれは、『ヴィレッジ』の、嘘と欺瞞に満ちた書割りの神話に支えられた村と、『レディ・イン・ザ・ウォーター』の、神話そのものが成立しないため、間に合わせのチープな御伽噺によって馬鹿げた世界を構築するしかない現代的世界とは、ぴったりと裏表として重なった世界で、つまりどちらにしてもその「外」はないということになる。、『レディ・イン・ザ・ウォーター』の海の精は、プールの奥底からあらわれ、空へと帰ってゆく。それはアパートの「外」ではなく、たんにアパートの下と上でしかないとも言える。
つまり、彼女に「海の精」という超越的な位置を与える物語そのものが、そもそも信用ならないものでしかない以上、彼女の予言や言葉、その行動もまた、その正統性には疑問があり、彼女は本来、どこの馬の骨とも知れない、身分の保証されない、わけのわからない女に過ぎない。しかし、すべてが薄っぺらでチープな物語の内部での出来事でしかないにしても、彼女が予想もしない形で不意にあらわれ、そして、ある時去って行ったという事実だけはリアルな感触として残るように思われる。そして、彼女の到来と帰還だけは、チープな「物語」の外側に位置し、管理人やアパートの住人たちの妄想や思い込みではないという「しるし」(これは、物語内部での役割=位置を知らせる「しるし」ではなく、その物語には書き込まれていない、物語そのものを成立させる、物語の外の「現実」が存在することを示す「しるし」なのだ)が、彼女のコバルトグリーンのまなざしであるように思われる。
『ヴィレッジ』で唯一リアルとつながっているが、青年の戸惑った表情であるのと同様に、『レディ・イン・ザ・ウォーター』で唯一リアルなのが彼女のまなざしなのだ。すべてが書割的な物語であり、その外も、その裏もまた同様に書割り的で出口のないシャマランの世界のなかで、それだけが、リアルな現実こそがその書割を支えていることを示している。しかし人はそこには決して届くことはなく、なまざしや表情として、かろうじて現実の「しるし」を受け取ることができるのみなのだ。
●引用、メモ。柴崎友香寝ても覚めても」(『ドリーマーズ』所収)より。これ、される方はきっとすっごい怖い。絶対こんなことしちゃいけないと思う(でもこの場面は、この連作全体のなかでとても重要な場面だと思う)。
《わたしは両手を伸ばし、右手は右側から左手は左側から、良介の顔を包むように当てた。わたしの手よりも、良介の顔の温度の方が低くて、ほんの少し冷たかった。わたしは親指を、彼のまぶたに添えた。それから、無理矢理上に押し上げた。
まぶただけ開いてまだ眠ったままの目が、一瞬、見えた。それからすぐに、目は暗闇を見て、わたしを見た。良介は筋肉の反射反応のように素早く強く目をぎゅっと閉じて、それからまた開けて、わたしの両手に包まれたその顔からわたしを見た。
「びっくりした」
良介は言った。わたしは、そらそうやな、と思った。》
●無理矢理こじあけた眠っている恋人の瞳が、《眠ったままの目》から《暗闇を見て、わたしを見》る目へと変化するのを、《わたし》は見て取ることができる。人の目はそれを感知する。これは驚くべきことではないだろうか。しかしそのとき、《良介》が見ている視覚像を具体的に知る(見る)ことは《わたし》にはできない(しかし本当にそうなのか?)。そしてこのことはおそらく、たとえば次のような場面と「感情的」につながっているように思われる。
《自転車に乗った小学生が五人、すげーすげーと叫びながらとても速いスピードで港のほうへ走り抜けていった。彼らを目で追って振り返ると、さっきの外国人の一団のうちの女の人がこっちを向いてなにかを言ったのが見えた。マサオと森ちゃんは前を歩いていて、それに気づいたのわたしだけだった。》(「ドリーマーズ」)
《幸太郎が話している間に電車は天満駅に到着して、出発した。たぶん今のわたしよりも小さかった小学生のころの幸太郎の後ろ姿が、うちの近所の建て売りが並ぶあたりをうろうろしているのが思い浮かんだ。でも、それと、幸太郎が思い出しているのとは、全然違う光景だと思う。》(「夢見がち」)
●ほかにも、さまざまな主題がいろんなところでざわざわ響き合っているような連作(?)集で、読みながらマティスの(「夢」ではなく)「赤い部屋」という絵(http://www.allposters.co.jp/-sp/-Posters_i941619_.htm)のことを考えていた。この絵の黒い服の女性は、見方によっては眠っているようにも見える。はっきりと眠っていると分かるのではなく、テーブルを整えているのだから眠ってなどいないはずなのに、(目や体の傾きなどから)眠っている「ようにも見える」ということろが重要なのだ。眠っていないかもしれず、眠っているのかもしれないこの絵の世界のなかで、背景の装飾模様が半ば三次元の方へとせり出し、三次元の事物が二次元へと半ば後退し、その存在の強さが同等となり、位置の安定が崩れ、相互に干渉し合い、響き合うようになる。この絵の虚(装飾模様)と実(人や果物やテーブルなど三次元のもの)との関係のあり方の感じが、この小説集の、夢と現実、知覚と幻視、わたしの知覚と他人の知覚、生と死、などの関係のあり様に近いように思った。