●『レディ・イン・ザ・ウォーター』(M・ナイト・シャマラン)をDVDで。「赤」を画面から排除することで不吉なしるしとした『ヴィレッジ』とはことなり、この映画では赤が頻繁に使われていた。中国系の家族が住む部屋やシャマラン自身が演じる作家の住む部屋など、重要な人物の部屋の壁が赤や赤に近いオレンジで塗られている。それに対し、庭は緑で覆われ、その中心に精霊がやってくるプールのブルーが配置される(下からの超越性であるプールと同様、上からの超越性である空もブルーだ)。色彩は、何か明確なしるしというよりは、赤と緑のとが交互にあらわれることで映画はすすんでゆく(青が超越的な色であるのに対し、赤と緑は現世的な色だ)。この映画で印象的なのは、庭の緑にまぎれている怪物の、緑を背景として浮かび上がる赤い目と、海の精である女性の、シャワールームの白い壁を背景に浮かび上がるコバルトグリーンの目の対比であろう。このコバルトグリーンの瞳は、物語的な役割としての超越性を示すブルーよりもさらに超越的な雰囲気をもち、この映画で唯一「世界の厚み」を示すものだと思われる。
シャマランはアクションの作家ではないが、この映画ではより徹底してアクションが排除されている。たとえば、アパートの管理人が怪物に襲われる場面でも、襲われる寸前でカットがかわって海の精の女性の顔になり、次のカットではぶざまな格好の管理人と、彼を見下ろしている映画評論家(彼の登場によって救われたのだ)の不思議そうなしぐさのカットとなる。つまり、決定的な瞬間はすでに過ぎており、襲われる瞬間も、助かった瞬間も画面には映らない。シャマランがアクションの作家ではないということは、彼の映画では、人間の意識的な行動、人間自身の能力や判断力によっては世界は変わらないということだ。シャマランの世界で登場人物がするべきことは、世界の「しるし」を正確に読み取り、自分自身にあらかじめ与えられている役割を知り、定められたとおりに行動することだ。しるしを読み間違えれば事態は悪い方向へと進み、正しく読み取り、パズルのピースが自分の位置を知るかのように自身の役割を正しく把握しさえすれば、事態はおのずと好転するだろう。そこには個人の能力や創意工夫、あるいは過ぎた欲望は否定されるしかない。
パズルのピースが自身の「役割」を得るためには、ひとつひとつのピースに位置を与え、それを配置するための台座が必要だろう。その台座の役割を担うのが神話的な物語だ。それは、世界の秘密が書き込まれたテキストであり、世界のしるしを読み解くためのヒントを与えるものであり、人々の行動を決定する法の言葉でもある。それはまさに、その上に(たんに個々の人物が配置されるだけでなく)世界そのものが築かれているはずの台座なのだ。台座=神話こそが、世界の根本を支える「世界の法則」そのものであり、超越的存在なのだ。しかし、シャマランの映画では、この台座=神話そのものが、そのような重責を担うような正統性をもったものだとは到底思えない、きわめてチープなものとしてしか出現しない。そこには超越性を支え、それを信じるに足りるものとしてみせかけるだけの「もっともらしさ」がないし、決定的に密度を欠いている。
『ヴィレッジ』ではまさに、その台座=神話そのものが、親の世代によってでっち上げられた嘘であることが暴かれる。そしてそれを知った子供の世代である盲目の女性は、その欺瞞を知った上で、嘘の上に築かれた世界へと帰ってゆくのだった。逆に、時間をかけて少しずつ、自分が不滅のヒーローであるという神話を受け入れ、その世界に生き始めた『アンブレイカブル』のブルース・ウィリスは、その世界の根底にある台座=神話そのものがサミュエル・L・ジャクソンによってでっち上げられたものだと知るや否や、すぐさま彼を警察に通報し、その台座=世界を破壊する。世界はくるっとひっくりかえる。
しかし『レディ・イン・ザ・ウォーター』では、その世界に「外」はないし、世界そのものがひっくり返ることもない。人物たちの行動に根拠を与える台座=神話は、たまたま同じアパートに住んでいた中国系の家族の母親から仕入れた御伽噺でしかない。そもそもその話が、母親の記憶違いを含むあやふやなものであるかもしれないのだし、その母親の母親がいい加減に口からでまかせに作った話しでしかないかもしれない。たとえそれが、ある正統性をもった物語だったとしても、その東洋のはなしが、いま、ここ、フィラデルフィアのアパートに当てはまるという根拠もどこにもない。にもかかわらず、手近で緊急に調達しただけのそのチープなはなしを、みなが本気で信じ、それを本気で演じるしかない。なにしろ、この世界には(『ヴィレッジ』のような)「外」もなければ(『アンブレイカブル』のように)「裏側」もないのだから。
世界そのものから物語が読み取られるのではなく、物語が先にあって、それに沿って世界から兆候が読み取られ、その兆候がまた、物語に従って組み立てられることで「人間にとっての世界」が生まれる。『レディ・イン・ザ・ウォーター』では、その物語は以前のシャマランの作品に比べても益々チープで単調なものになり、大人がまともに信じられるようなものとはいえないような形になる。しかし、世界に外も裏もなく、手持ちの物語がそれしかなければ、人はその馬鹿馬鹿しい物語を本気で信じ、本気でそれを演じる(つまりそれを「生きる」)しかない。シャマランの映画は、益々馬鹿馬鹿しく、益々薄っぺらくなり、しかしそれに比例して益々追い詰められ、切実になる。チープになればなるほど、悪夢のようにリアルになる。