●『ヴィレッジ』(M・ナイト・シャマラン)をDVDで。例えば、画面から赤という色を徹底的に排除することで、画面への不意の赤の侵入を不吉なものの「しるし」とする。これは決して自然なことではなく人為的な操作で、しかもその手口はかなり見え透いている。しかし、そのしくみを分かっていたとしても、画面のなかに赤が侵入すると、それを観る観客はドキッとする。作者によって意識的に操作されたものだと分かっていても、そこになにかしらの「しるし」を読み取らざるを得ない。シャマランの映画はまさにそのようなものとしてある。
世界はまさに薄っぺらである。この、いつの時代か分からないファンタジー的な舞台は、長い歴史によって支えられたものでも、無時間的な永続のなかにあるものでもない。年長者たちの世代によって設立されたフィクションが、その子供たちの世代によって生きられているに過ぎない。あたかも、長い時間ずっとつづいて村の秩序を守ってきたかに思われた「森」と「怪物」を巡る神話は、実は親の世代がでっちあげたものに過ぎなかった。第二世代である子供たちにとって「世界」そのものであるようなこの村は、村のリーダー格の男の父親の遺産を財源とし、リーダー格の世代の(外の世界への絶望と)理想によってつくられた。親の世代にとっては、意識的に選択され設立されたこの村は、しかし第二世代にとっては、あらかじめ強制的に与えられ、しかも意識的に制限され操作された世界そのものとして、それ以外の選択肢を奪われた形で存在している。第二世代の子供たちにとっては世界そのものが、根拠のあやふやなフィクションでしかなく、そこは嘘と欺瞞に満ちている。
生まれた時から「嘘の世界」しか与えられていない第二世代の子供たちは、その薄っぺらな嘘の上に自らの生を築いてゆくしかない。無口で実直な青年と、純粋で強い意思をもった女性との愛の物語は、そのような嘘の世界だからこそ成り立っているとさえ言えるのだ。おそらく、観ている観客のほとんどが好感を持つであろうこの二人の人物とその関係を「作品そのもの」が踏みにじるかのように、映画の途中でこの世界=村そのものの嘘が明かされる。それは、作品そのものが、自らの薄っぺらさを告白しているかのような振舞いでもあるのだ(そして、作品=村の嘘を暴くのは、メタ的な位置にあるものではなく、作品=村に内在する矛盾であり、それを引き出すのは最も無垢=無自覚な存在である)。何時の時代の何処の土地だともしれない、小さな村の、そこに生きる人々の、つつましい生活。ささやかな喜びと深い悲しみ。恐怖とそれを克服する勇気と愛。それなりに魅力的な細部をもって展開されるそのような物語を観ていると思っていた観客は、その前提そのものが信用ならない、薄っぺらなものの上に築かれていたことを思い知らされる。彼らの喜びや悲しみや恐怖、彼らにとっての世界の輝きと底知れなさとを根底で支えていた「森」と「怪物」の神話は、実はチープな着ぐるみの偽物でしかなかった。だから、盲目の女性にとって本当の試練は、森を抜けて街へ出るということではない。何しろ、森の神話的な力は既に消失してしまっているのだから。彼女の試練は、今まで自分を、自分の生活を、そして自分と男性との関係=愛を支えていた神話的世界の根底にある「神話」そのものが崩壊した後でもなお、男性への愛という感情を(輝きとして)維持することが出来るのか、そして、すべてが嘘っぱちと分かったその世界へと、再び帰還し、そこでその嘘を、嘘と分かった上でなおリアリティの根拠として受け入れ、その世界を生きることが出来るのか、という点にあるのだ。根底から嘘で出来た薄っぺらな世界で、嘘と分かっている役割を演じつつ、その嘘の場所で、真実の生、真実の愛を生きることが、どのようにすれば可能なのか。
シャマランの映画が問題にしているのもまた、このような事柄であり、シャマランの映画を観ている観客が突きつけられているのも、このような問いであろう。世界の根底を支えている「世界の法則」はチープな嘘でしかなく、我々の存在はその嘘に強いられた薄っぺらな役割でしかなく、しかもそこから外へは抜け出せない(抜け出したとしても、それは嘘の世界が反転しただけで、まだ別の、しかし同様な薄っぺらな世界に出るだけだ)。しかし、そこで生きる人間たちの生や感情、喜びや悲しみや苦しみや恐怖や愛までもを、チープな偽物だとは言い切れない。シャマランの映画のリアリティはそこにこそある。ここには、例えばリンチの映画のような、無意識の深さや厚みを感じさせて人を魅了する謎はなく、謎はみもふたもなく解明されてしまう。無意識の厚さによって裏から支えられない映像はまさに書き割り的に薄っぺらだ。謎がないということは、出口がないといことだ。そして登場人物たちは(まるで「一ミリの女」のように)その強いられた世界の厚みのない厚さのなかで生きる。
だが、この映画で唯一、世界の厚みを感じさせるのが、保護区から出てきた盲目の女性と出会ってしまった監視員の男性の存在だろう。彼にとって、森から出てきた盲目の女性に出会ってしまったという経験は、まさに世界の神秘(不可解さ)そのもののあらわれであろう。彼にとって、彼女の存在そのものが「世界が存在することの証明」のようなものであろう。この不思議な感触は、彼が「保護区の中の村」に関する事実を知ったとしても、解決されることはないはずだ。ある日、仕事中にへんな女と出くわし、事務所の薬をちょろまかして、その女に渡した。彼にとっては、ただそれだけの出来事なのだが、しかし、このことを彼はおそらく一生忘れないのではないか。忘れないどころか、彼は今後、死ぬまでずっと、この不思議な記憶とともに生きてゆくのではないだろうか。森からあらわれた女と相対した時の、この男のとまどった表情。この表情は、この映画全体と拮抗するほどに印象的なイメージだと思う。多分、薄っぺらな世界からの出口はここにしかないように思う(でも、この出口にも、これ以上は先はない)。