●シャマランの『ヴィジット』をDVDで観た。シャマランはちゃんとシャマランだった。08年の『ハプニング』以来の、久々のシャマランらしいシャマランで、とても嬉しい。まるで無名の新人監督が撮るような、あるいは、週末を利用して親戚のもっている別荘で友達を集めて撮った自主映画と言っても信じてしまうのではというくらいの、みるからに低予算と分かるホラーで、大仕掛けみたいなのは一切ないのだけど、だからこそシャマランのシャマラン性が濃厚にでていた。怖いというよりは「嫌なものを見た」という感じ。この「嫌さ」の感覚がシャマラン独自のものだ。笑ってしまうのだけど、その後にいやーな感じがじわじわっとからみつく。
出だしのところでは、「いまさらPOVなのか」と思って「シャマランはもう本当に毒気が抜けてしまったのだろうか」とも感じたのだが、世界はじわじわとシャマラン色に染まってゆく。むしろ「いまさらPOVである」ところがすごい、というものになっている。オチまで含めて、ネタ的には特に驚くようなことはない。見方によっては、優等生的に手堅く上手い低予算ホラーにみえなくもない。低予算ホラーの様々な手法を勉強しました、みたいな感じで、やっていることを一つ一つみてみれば、どこかで見たようなものばかりなのかもしれない。しかし、一個一個のイメージのズレ方、外し方が絶妙で、それらのズレたちが響きあって、すごく気持ちの悪いシャマラン的なチューニングができあがっている。
「怖い」というより「嫌な感じ」だというのは、雰囲気なのだと思う。大したことは起きていないのに、雰囲気ばかりが濃厚になってゆく。「雰囲気だけ」というのは悪口みたいだけど、こんな雰囲気を作り出せるのはシャマランだけだろう。姉弟が床下でかくれんぼをしているところに、二人を脅かすようにお婆さんがいきなり乱入してきて、何が起こったのかと唖然とする二人を残して去ってゆくお婆さんの後ろ姿が、スカートが破けていて裸の尻が覗いているという、この描写の絶妙な「……」という感じ。あるいは、何か秘密があるらしいと潜入した納屋に、大量の使用済み紙おむつが山のように積んであるという、この「……」という感じ。夜中に扉の外で壁を擦る音がしているので扉を開いてみると……。どう反応してよいのかわからない、身の毛もよだつ恐怖というのではないけど、笑いとばして済ますこともできない、なんか今やばいものが見えちゃったんですけど、それで一体私にどうしろと……、という感じが積み重ねられてゆく。
(感覚の根にあるものとしては『まことちゃん』に近いような気もするのだけど、そこまでエグくはないので「笑い」に逃れることが出来ない。)
この映画では、いつものシャマランのような誇大妄想的トンデモネタがない。どんでん返しはあるのだけど、普通にちゃんと納得できる範囲に収まるものだ(その意味で『シックスセンス』に近い)。そうであるにもかかわらず、濃厚に暗号解読的なシャマラン的世界だ。世界は薄っぺらで、現象は信用できず、「意味」の一部となることを求める細部で溢れている。あらゆる出来事は「意味ありげ」で確定的な意味をもたず(そうである限りにおいて濃厚な雰囲気を醸し出し)、しかし、ラストが示されることで、時間を逆行するようにドミノが倒され、連鎖的に細部の意味が確定されてゆく。しかし、そこで意味の連鎖により描かれる図像も薄っぺらなので、しっかりとした真実感のようなものはない(もう一度ひっくり返されないという保証はない)。
ネタによる大枠での無茶ぶり(無茶な世界観)がなくてもシャマランはシャマランなのだということは、シャマラン的な演出、シャマラン的な細部、シャマラン的なイメージ、シャマラン的構築が、ますます磨きがかかってきたということなのではないか。やはりシャマランは「本物」だったと、この映画を観て思った。
●関係ないけど、最近『ランド』(山下和美)というマンガを読んで、とても強くシャマランの『ヴィレッジ』を感じた(こう書くこと自体がネタバレのようになってしまっています、ごめんなさい)。パクリだとか、そういうことではなく、『ヴィレッジ』を、こんな風に展開させ、深堀りすることが出来るのか、と思ったのだった。
●さらに関係ないけど、『20世紀少年』を19巻まで読んだのだけど、しばらく姿を消していた主人公のケンヂが、久々に再び姿をみせたと思ったら、作者の浦沢直樹の自画像としか思えない風貌になっていて驚いた。この人、これがやりたくて(ここで「自分」を登場させたくて)、ここまでこのマンガを描きついできたのだろうか、と思った。