●下のリンクの記事。「755メガピクセル可変焦点のLytro Cinemaカメラは映画撮影からグリーンスクリーンを追放する」
http://jp.techcrunch.com/2016/04/12/20160411lytro-cinema-is-giving-filmmakers-400-gigabytes-per-second-of-creative-freedom/
≪Lytro Cinemaは外界の驚くべき量の情報を記録する。撮像素子は7億5500万ピクセルだ。Lytro Cinemaは40K解像度のRAWデータを最大で毎秒300フレーム撮影できる。なんと毎秒400ギガバイトのデータ量に相当する。≫
≪このテクノロジーは光に含まれる情報を余さず利用することにより、異なる距離にある対象物を分離して三次元のグリッドとして記録することができる。自由にナビゲーションできる3D世界を作るのに理想的だ。≫
≪Lytroではこの能力によってコンピューターグラフィックスと実写をシームレスに融合させることができるとしているが、これはそのとおりだろう。≫
●今までの高解像度カメラは、我々の感覚に驚きを与えた。こんなところまでこんなにくっきり詳細に写ってしまうのか、と。その像により一挙に与えられる感覚の過剰さは、感覚不能な領域についての隠喩となる。
(それは感覚のオーバーフロー状態をつくり出し、たとえばグルスキーの作品のように、きわめてお手軽な崇高的表象をつくりだす。)
しかし、実際に人間の感覚を大きく越えてしまえば、感覚によってでは違いが分からない領域に入る。これ以上技術が進んでも「感覚」は驚けない。あるいは、感覚の驚きは更新されなくなる。だけど、それで撮影したデータを加工しようとする時、それを使って何かをしようとする時に、おお、こんなことも出来てしまうのか、と、はじめて驚くことができる。純粋な感覚ではなく、ある行為をするという過程のなかに生まれる感覚しか驚きを得ることができなくなる。光学的な装置が、その解像度の高まりによって、視覚像であることを越え出て、我々がその内部で行動する「環境」になる、とも言えるのではないか。
(グルスキー的な感覚のオーバーフローの前では、ただ立ち尽くすしかできないが、視覚的解像度が完全に人間を追い越すことで、人が映像のなかで行為する余地が生まれる、のではないか。)
(バーチャルリアリティの「Virtual」を「仮想」と訳するのは間違いだという記述が、多くのVRに関する本のはじめのところに出てくる。「Virtual」は「実質的な」と訳されるべきだ、と。つまり、物理的にはリアルではないが、実質的にリアルと言っていいもの、ということだ。ウィキペディアの「ヴァーチャルリアリティ」の項には、「Virtual Money」は電子マネーのことで、贋金を意味するのではない、という例が書かれている(「お金」こそが、物理的にはリアルでないが、実質的にリアルなものの代表と言えるかもしれない)。上の記事は、映像がまさに視覚像をこえて「実質的なリアル」となり得る、ということを表しているとも言えるのではないか。)