●カーツワイルは、2030年代には完全に没入するバーチャル空間によって、人は自分の姿を自由に変えられるようになるという。例えば、親に対する自分の姿と、同僚に対する姿と、恋人に対する姿とを、それぞれ別にすることも可能になる。そしてその時の相手が「わたしの選んだわたしの姿」を気に入らなかった場合、相手の好きなような姿に(相手から見た)わたしの姿を書き換えることもできるという。わたしは相手にAという姿を見せているつもりでも相手は勝手にBのイメージで見ているかもしれない。恋人同士はたがいの姿をなりたいように変えることができるし、相手になることも、性別を交代することもできるようになる、と。同様のイメージをグレッグ・イーガンなども小説で描いているが、それはもっとずっと未来の話だ。カーツワイルはあと二〇年もしないうちにそうなると言う。
だが、このようなイメージはあまりにとりとめがないと感じたのか、そのすぐ後に、自分が体験したもう少し分かり易い例を挙げている。
モンテレーで開かれた二〇〇一年のTED(テクノロジー・エンターテイメント・デザイン)会議で行ったヴァーチャル・リアリティのデモンストレーションで、わたしは別の人格として投影される気分を味わうことができた。コンピュータは、服に内蔵された磁気センサーを通して、わたしの動作を逐一たどり、超高速アニメーションによって、等身大のほぼ写実的な若い女性の映像――ラモーナ――を作り、リアルタイムでわたしの動きを再現した。声は信号処理技術によって女性の声に変換され、ラモーナの唇の動きもコントロールされた。したがって、TEDの聴衆にはラモーナが発表しているように見えたはすだ。
コンセプトをわかりやすくするために、わたしとラモーナを同時に見られるようにして、ふたりが寸分たがわずまったく同じように動いていることがわかるようにした。≫
≪わたしにとってその経験は、たいへん意義深く、感動的だった。「サイバーミラー」(観客にはどう見えているかを見せてくれるディスプレイ)を見たとき、自分は普段鏡の中で見ている人物ではなく、むしろラモーナであるかのように思えた。わたしは別の誰かになるということの、感情に訴える強い力――頭でどう理解するかだけではなく――を経験したのだ。≫
このような経験のローテク版が、コスプレや男の娘や女体化願望などとして文化的に既にあるようにも思えるけど、それはそれとして、この経験は最初の例とは少しずれているように思う。ここではおそらく、「他人になる(別人が「わたし」である)」ことのリアルさを支えているのは映像の精度であるというより、動きの正確な同期であるように思われる。例えば、左手を自分からは見えない位置において、見える位置にはゴム製の偽の左手の模型を置き、自分の左手と模型の左手に、正確なタイミングで同じ刺激を与えていると、そのうち模型の左手が「自分のもの」であるように感じられるという実験がある。カーツワイルの経験では、能動的な運動感覚(喋る、動く)と視覚情報の同期であり、後者の実験は、受動的な刺激と視覚情報との同期であるが、どちらもリズムの同期によって「それ」を「わたし」と感じるようになる。これは「わたし」という経験に関する感覚だから、見ている観客にはカーツワイルほどの驚きはなかったのではないかという気がする。
何が言いたいのかというと、この話は、昨日の日記に書いた、赤ちゃんの話とつながるのではないかということだ。テレビを観る赤ちゃんは、自分と相手とのアクションとリアクションのタイミングが少しずれると、映像への興味を失ってしまうという。模型の左手の実験もまた、刺激のタイミングがちょっとでもずれると、「自分という感じ」が消えてしまうのだという。赤ちゃんのリズム同期は、半ば能動であり半ば受動であると考えられる。カーツワイルの能動的運動感覚も、左手実験の受動的刺激も、どちらも「わたしの外」に「わたし」という感覚を生む。わたしではないはずのもの(視覚像)と、わたしという場に起こる感覚や刺激が同期することで、その「少しのずれ(違和感)」に対する同調への志向性が起動して、そこ(わたしの外)に「わたし」という感じが生じる、のだとしたら…。
だとすれば、赤ちゃんはやはり、目の前にいて、自分のアクションに対してすぐさまリアクションを返す他人を、「わたし」というもののモデルとして、その他者の場に「わたし」を見出しているのではないだろうか。リズム同期によってあらわれる、「わたし」の原基としての「あなた」。この感じは、いわゆる想像的同一化(自他未分化、鏡像段階)という感じとは、近いけど、ちょっと感触が違うように思われる。同期しようという志向性(それは微かな違和感で作動する)によって、「あなた」の場所に「わたし」が見出され、しかしその接続は不安定で、ちょっとしたことで分離される、という感じ。「わたし」は常にあるわけではなく、(「あなた」に)接続されたり切断されたりする度に、(その都度別の「わたし」が)現れたり消えたりする感じではないか。