2021-07-02

東工大の講義の準備として『変身物語』(オウィディウス)を読んでいるのだが、とても面白い。紀元8年くらいの時期に完成されたと思われる、ギリシアローマ神話から変身をモチーフとした話が集められている本。イカロスの翼とか、ディアーナとアクタイオーンとか、ナルキッソスとエコーとか、有名なエピソードがはいっているのだが、微妙に加工されているというか、ぼくの知っている話と少し違っている。

ナルキッソスとエコーの話など、かなり複雑なイメージ操作がなされていて、ほとんど現代小説のような味わいがある。自己愛の話というより、ナルキッソスが自己を愛することの不可能性に悩んだ末に衰弱死してしまう話になっている。

まず、予言のような、呪いのような言葉が最初に置かれて、その予言が実現してしまうのだが、予想通りにではなく、意外な形でひとひねりされて実現されるという構成は「オイディプス王」と同じだといえる。だが、予言が二重化されていて、予言→実現〔予言→実現〕のような形になる。

とびぬけて美しく、誰からも愛されるのに、誰の愛も受け入れないナルキッソスは、恨まれ、「あの少年も恋を知りますように! そして、恋する相手を自分のものにはできませんように!」という呪詛の言葉を吐かれる(これは第二の予言だ)。そしてこの呪いは二重の形で実現される。

まずは、ナルキッソスが泉に映った自分の像という「虚像」に魅せられる。最初の段階では、この像が自分の姿であることはそれほど重要ではない(彼は最初それを知らない)。彼の愛の対象が虚像(映像)であるからこそ、彼はそれを手に入れることが決してできないということが問題となる。《おまえが求めているものは、どこにもありはしない。おまえが背を向ければ、おまえの愛しているものは、なくなってしまう》。

そして次に、その像が自分自身であると知る。ここでは、自分の美しさに自分でうっとりとするといったような自己愛とはまったく異なる局面が訪れる。《豊かすぎるわたしの美貌が、そのわたしに、貧しい身であるかのようにそれを求めさせたのだ。ああ、このわたしのからだから抜け出せたなら! 愛する者としては奇妙な願いだが、わたしの愛するものがわたしから離れていたら! 》。わたしがわたしである限りわたしを愛せない。わたしの美貌やわたしの体に触れ、それを愛することが出るのは他者だけであるが、わたしはわたしの外には出られないから。

自己愛の不可能性に悩み、すっかり憔悴して美しさを失ったナルキッソスが、泉の水面に憔悴しきったかつての愛の対象の姿をみる。その像に向かって彼は、「ああ、むなしい恋の相手だった少年よ!」という。それを聞いた(かつては自分もナルキッソスを愛し、拒絶されることで傷つき、身体を失った)妖精エコーが、彼のその言葉をそのまま繰り返す。ナルキッソスからすればそれは、愛の対象であった水面の虚像からはじめて「言葉」を返されたと感じる出来事だろう。自分の言葉の反復でしかないとしても、その言葉が(内声ではなく)自分の身体の「外」からもたらされることで、それは相手からの返答として機能するだろう(ほんの僅かながら、自分の自分からの分離が実現した)。自分自身という不可能な愛の対象との対話がはじめて成立する。そして、《おのれの持ち主の美しさに感嘆していたあの眼を、死が閉ざした》。

(泉に映った自分の姿に見とれていたナルシスが足を滑らせて溺死してしまう、という単純な話とはずいぶん違っている。)