●『鴉』(麻耶雄嵩)を読んだ。ちょっと前に読んだ『夏と冬の奏鳴曲』が思いの外おもしろかったから。
人が、最初の他者のなかに見出すのは、文字通りの「最初の他者」であると同時に「自分自身のモデル」であり、そしてさらに、世界と自分とが分離してしまったという出来事のしるしでもある。つまりそれは、最初の他者であると同時に最初のわたしであり、そして自分から切り離されてしまったものとしての「世界」の最初の姿なのだ。その像は、「あなた」であり「わたし」であり、あなたとわたしの間に差し挟まれる「と」としての世界の出現の痕跡でもある。人は、あなたのなかにわたしを見出し、わたしのなかにあなたを見出すという形で、他者と自分と世界とをたちあげる。わたしに向かってあなたと呼びかけるような二人称的距離感のリアルさ。人が分身に強く惹かれ、かつそれを強く恐れるのは、その時に刻まれた感触のためだと思われる。
これはラカン鏡像段階と呼ぶものというよりクラインなどが対象関係と呼ぶものに近い感触だと思うのだが、そこでは、わたしとあなたとの間に生じる、無限の愛(依存)と無限の憎悪との果てしない反転が渦巻いている。とはいえしかし、それはあくまで、(あなたでもある)わたし、と、(わたしでもある)あなた、との分離が一応成立し、かりそめにも世界が設営された後の話であろう。
麻耶雄崇がその作品のなかに刻みこみ、探り出そうとしているのは、わたしとあなたとの間に生じる愛と憎悪の果てしない反転といった鏡像段階=想像界のできごとであるというよりは(もしそうだとしたらそれは「決定不可能性」をめぐる凡庸で退屈な物語となってしまうだろう)、その分離の瞬間、世界そのものである誰でもない誰かが、あなたを見出すことで遡行的に自らを「わたし」として見出す瞬間の、その衝撃=感触(のこだまや痕跡)であるように思われる。前者と後者の違いはとても微妙なのだが、その微妙さのなかにこの作家の面白さのキモがあるように思う。それは、あなたを孕んだわたしがあなたから分娩され、わたしを孕んだあなたがわたしから分娩される、そのような感触である。その時はまだ、わたしもあなたも世界もきちんと分離したものとしては設立されていないから、ただ、どこでもないどこかいつでもないいつかに、不可逆的な何かが生じたという、書き込まれる場所をもたない出来事の不確かな感触があるばかりだろう。
だからこそ、麻耶雄嵩の作品では世界が設立されない。謎が一応の解決をみた後、世界は崩壊し、わたしもまた崩壊する。根拠はすべて消し去られなければならない(最後に根拠を剥奪するために登場するメルカトル鮎という胡散臭い探偵の存在の仕方そのものがそれを証明している)。そうでなければ、その後に待っているのは退屈な愛と憎悪の弁証法(あるいは、メタレベルとオブジェクトレベルとの決定不可能性)でしかないからだ。そして、だからこそ、その作品世界は「現実」から切り離され、孤立した、物理法則さえ超越しているような非現実的な場所である必要がある。そこは、世界の外であり、世界設立以前に留まりつづける、世界設立以前からのこだまが響く場所なのだ。そして、物語は、わたしとあなたの闘争(弁証法)でも、愛と憎しみの反転でもなく、あなたこそがわたしで、わたしこそがあなたなのだ、という風にして、わたしとあなたが反転しつつ増幅する形になる。
そのような性質はどちらも共通すると思うのだが、しかし『夏と冬の奏鳴曲』では、その舞台設定も登場人物もいかにも書割的で薄っぺらで、文章も大げさな割にたどたどしく、だがそのことによって外的な参照物から逃れて抽象化され、より純粋に「世界の外でのその瞬間」の感触を生々しく捉えていたと思うのだが、『鴉』では、舞台設定の外的な参照項としての人類学的、民俗学的なもっともらしさが持ち込まれている分(「空虚な中心」とか言って簡単に済まされてしまいそうな分)、その感触の生々しさが後退し、やや弱くなっているように思われた(まあ、エンターテイメントの小説としては、よりちゃんとしている、ということだけど)。とはいえ、最後の謎解き部分の、分身、見せかけ、入れ替え、あなたとわたしの反転等が次々に畳み掛けられるめくるめく展開は密度があり、かなり面白いと思った。あまり書くとネタバレになってしまうけど、緑と赤に関するトリックは鮮やかだし、この作品の主題とも不可分に絡み合っている。
麻耶雄崇の作品を作動させているのは、この世界のなかで作動している構造の解明(あるいは、世界観の設営)ではなく、あくまで世界の設立への拒絶であり、あなたとわたしと世界とが分離するその手前の瞬間に留まろうとする感情であるように、ぼくには思われる。