●考えてみると、河本英夫の言っていることはとんでもなく過激だ。たとえば、人が手を挙げるという時、「手を挙げよう」と意識・意思することによって(それが原因となって)「手が挙がる」と考えることがそもそも意識のもつ「自然な誤解」で、実は、「手が挙がる」からこそ「手を挙げよう」と思う、あるいは、「手を挙げつつ、手を挙げようという意識が生じる」ということになる。つまり、意識や意思は行為を導くものではなく、行為とともに、その一部として、行為に伴ってうまれるものに過ぎない、という。手を挙げようと思った時には既に手は上がりかけている。手を挙げさせているのは意識以前に働いている無数の「ゾンビ・システム」の協働だということになる。もしそうだとすれば、ごく普通の意味での意識的な「主体性」というものは成立しなくなる。
では、何故意識というものが発生するのか。河本英夫によれば、意識は行為を先導するのではなく、行為を制御・抑制するために機能する。つまり、身体(ゾンビ・システム)が「手を挙げよう」として作動しはじめたとしても、「もしかすると手を挙げないこともあり得る」という可能性を確保して、選択の幅を広げるというような場面にこそ、意識は主に関与する、と。それは例えば、リハビリの現場で、不随意な硬直などが生じてしまう時、その部位を「意識する」ことによって、硬直が起こる確率が減少するというような事実からも推測される、と。意識はそもそも、否定的、抑制的な機構として働き、それは判断の保留という遅延を生むだろう。つまり意識は、行為を組織するときの判断の重層化のために生じるそのシステムの一部である、と。だから、そこで「判断する」のもまた、きっと意識ではないということになる。
●そしてその後、記述は(その名前を実際に挙げつつ)荒川修作化してゆく。以下は荒川による難解な文章を分かり易く書き直したかのようですらある。『臨床するオートポイエーシス』より。
≪一般に意識の働きとして、遅らせて選択可能性を開くような遅延機能、選択の場所の設定、自分自身の組織化の三つに限定してよいと思う。この遅延機能のことを、荒川修作はかなり早い段階から気付いており、意識とは「躊躇」の別名だと言っていた。また選択の場所の設定というのは、空間的な広がりのことではなく、さまざまな働きを混在させておくという非空間的な場所のことである。この働きのなかには、感情や情動あるいは渇き飢えのようなものも含まれる。また意識の自分自身の組織化は、集中させたり集中を解除したりする働きである。つまり意識は自分自身の前史を断ち切るほどの組織化をそのつど行っていることになる。意識による遅延がなければ、反射運動・行為だけになり、選択の場所の設定が機能不全になると統合失調症、自分自身の組織化不全になると意識障害となる。≫
●あと、この本では繰り返し、「気づき」は行為に伴う調整機構であって「自己意識(自己反省・自己言及)」とは異なる(そこを混同するな)ということが書かれている。これは重要だと思う。自己意識は行為を滞らせるが、気づきは行為のなかにある。
≪意識から捉えたとき、見えにくくなるものの一つが、随意運動にともなう運動感、すなわちキネステーゼである。身体を動かしているとき、おのずと動いている感じをもつ。これは内感の一つだが、運動にかかわる限り、キネステーゼが単層であるとは考えにくい。より強く動かすとき、あるいはより緩やかに動かすとき、すでにキネステーゼには調整能力が関与している。それが気づきである。歩行の途上で自分の手足の運動感を感じ取るとき、その動いている感じに気づいている働きがともなっている。この気づきの働きは調整能力であって、キネステーゼを知る働きではない。気づき(アウェアネス)は、自己反省能力ではなく、実践的にはキネステーゼに内在する調整機能である。体性感覚の一部である気づきは、触覚の場面と同様、働きとそれにともなう調整の二重化をつねに行っている。≫