●もうちょっと、『飽きる力』(河本英夫)から引用、メモ。それにしても、昨日引用した《今月は家計が苦しくなると思いながらでも、おいしいものはやはりおいしいのです。何かとめどもない半ば空虚な状態が襲ってきます。本気で物を考える気も失せます。》ってすげえな、と改めて噛みしめる。
以下の引用は、障害、病気、リハビリテーションについて。
●神経の再組織化と身体全体としての機能のギャップ
《脳の神経は、神経そのものは増えないので、損傷を受けていない周囲の神経の再組織化によって少しずつ回復していくのですが、脳の再組織化というものは、本人にとって都合のいいようにだけ起こってくれるわけではないのです。神経はどこか一番近くのものとつながることができれば、そこでネットワークができて生き残ることができます。そうした神経自体が生き残れるようなかたちで、再組織化は起こるのです。(…)
そのことは、患者本人にとって神経の再組織化が必ずしも都合がいいものではないことを意味します。》
《(…)そのときに、神経の生き延びようとする最善の努力と、患者自身のあり方とのギャップ、それを私たちは「病気」と呼んでいるわけです。そのギャップをうまく解消し、神経ネットワークが患者自身にとって最善であるように再組織化することは、簡単な課題ではありません。》
《たとえば、現在、長嶋茂雄は左脳の梗塞で右半身が思うように動かない。そうすると、動かない右の腕を動かそうとして、上半身や歩行のための足の運びの運動トレーニングをする。もちろんそれまでできなかったことが少しずつできるようになり、トレーニングの成果はあります。また衰えて使いものにならなくなるような「廃用」に陥ることも、防いでいます。しかし、欠損があるのは脳なのです。彼は筋肉断裂でも、骨折でも、関節疾患でもないのです。ですから、運動トレーニングは筋肉が固着するのを遅らせるということにとどめて、本当は、脳の神経に働きかけるトレーニングをしなければいけないのです。》
●身体運動のなかに「区別を立てる」こと。ただし、情報処理過程である認知は、それ自体として運動を導くわけではないこと(反アフォーダンス)。
《実際に私たちが身体運動を行っているとき、どんな手や足の動かし方になっているかは、鏡に映していちいち確認しているわけではありません。全体的な感じとしてどんな状態かは、何となくわかっているのです。(…)身体や身体運動に直結しているのは、イメージであって、知覚ではありません。ですから、イメージを運動や行為の獲得のために活用する仕方はあるのです。
たとえば身体を動かす前に、動かすための手掛かりとして動きのイメージを描いておくというやり方です。イメージを運動のための予期として活用する仕方です。(…)
さらに自分の運動にともなう快、不快のような情動、感情要因も活用されます。快、不快のような情動は、きわめて記憶に残りやすいのです。そのため運動のさなかで、快、不快の区別がつけば、ともかくも自分の身体運動について、どこかで区別を立てることができています。これは、動きやすいとか動きにくいとかいう運動性の滑らかさとは異なります。身体のなかに何か区別が出現することは、自分の身体にとって手掛かりが増えているということですので、ともかくも手掛かりとなる変数を増やすという試みになっているのです。
(…)ただし認知能力は、それ自体単独では、運動能力につながってゆくことはありません。(…)最低限肝に銘じておかなければならないのは、認知から運動を導くというようなことは原則ありえないことです。》
認知科学は認識を情報処理になぞらえて考察する科学です。情報の意味を知ることが認知となります。ところがリハビリがカヴァーする多くの疾患は、手足が動かないというように運動障害です。どうして認知的訓練から運動能力が回復するのでしょうか。認可科学のいう情報処理的な「認知」から、運動が導かれるはずはないのです。》
《現在のリハビリの大きな問題の一つは、損傷後の神経システムが現在の状態になっていることには十分な理由があるにもかかわらず、それを外からの基準、つまり健常者と比べてここが足りていないからそこを作っていこうというやり方になっていることです。そのやり方は、神経の自己組織化の仕組みを最大限活用する方向を向いていないのです。どちらかといえば、コンピューターの部品が壊れたので、その部分を修繕するというのに近いのです。》
《(…)健常者から見て欠けているものを作るというよりは、そもそも欠ける前の状態が成立した場所に戻って、そこからの訓練をもう一回立ち上げていくことになるのです。ここには身体をともなう行為の参加が不可欠です。というのも身体とともに形成されてきた視野は、たとえそれが変化した場合でも、身体とともに再組織化されるからです。つまりたんに視覚的な視野だけの問題ではなく、身体動作とともに形成されてきたものは、身体動作とともに再組織化されるのです。》
●病気は、何かが欠けているのではなく、それ自体として十全に機能している状態であること。
《病気であるということは、その本人固有のかたちであり、病気という生き方をしているともいえます。つまり、なにも欠けていないというかたちで維持されている積極的な状態ですから、欠けているものを付け足すように入れようとしても、全部拒絶されてしまう。》
《脳に障害がある場合、意識は「自己」を維持するために、さまざまな防衛機能を働かせています。意識は自分自身を維持しなければ、視野全域が消えます。いわゆる発作状態に近いことが起こります。それを避けるためには、一部視野を欠落させても、意識そのものを維持したほうがいいという状態が起こります。ことに脳卒中の急性期では、ある段階で意識はしばしばこうした局面を通過し、一時的に右もしくは左の視野が欠落するということが起こります。そのことを第三者が外から見たときに、あの人はここが欠けてしまっているから、そこを回復させてあげしょうといって、視野のないところに光源を置いて、刺激を与えたりしてしまうのです。そして視野が欠落しているのだから、そこに対応する刺激を感じ取るように努力しましょうということになります。この場合には意識はまさに左側を無視することによって、自己維持しているのですから、そこに直に働きかけて負担をかけることになってしまいます。》