●昨日、一昨日から、もうちょっとつづく。
神経系的で自律的な身体とは、有機的な身体というものとも違って、有機・無機の区別と関係なく作動しているシステムとしての身体のこと。もう一方の極である「一つのランガージュとして構造化されている」無意識としてのシニフィアン的な身体が「意識」されることがないのと同様、神経系的な身体もまた、意識されない。ただ、身体の機能になにかしらの障害が生じた時にのみ、それが前景化される。次の引用は、多田富雄が書いた自らのリハビリについての文章。
《もう体は回復しない。神経細胞は再生しないのだから、回復を期待するのは無意味だ。(…)
しかし私の中に、何か不思議な生き物が生まれつつあることに気づいたのは、いつごろからだろうか。初めのうちは異物のようにただ蠢いているだけだったが、だんだんそいつは姿を現した。
まず初めて自分の足で一歩を踏み出したとき、まるで巨人のように不器用なそいつに気づいた。私の右足は麻痺して動かないから、私が歩いているわけではない。(…)
私はこの新しく生まれたものに賭けることにした。自分の体は回復しないが、巨人はいま形のあるものになりつつある。彼の動きは鈍いし寡黙だ。それに時々裏切る。この間こけたときは、右腕に巨大なあざを作った。そのたび私は彼をなじる。》(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』から孫引き)
神経系は閉じたシステムであるから、死んでしまった神経細胞はもう使えない。しかし、生き残っている神経細胞が、その範囲内で自ら新たな組織化を行い、以前とは別のやり方(別のネットワーク)で、ひとつの行為(歩くこと)を創発しようと働いている。この組織化する動き(力)そのものは、「私」の意思とは関係がない。自律的な神経システムがいわば「勝手に」作動している。この、自律的なシステムが勝手に作動するその力に、「私」は、自分の内部で新しく生まれつつある、「巨人のように不器用な」「彼」を感じている。この「彼」こそが(精神分析的な意味での分身とは異なる)、神経系システムの作動そのものであり、また、そのなかでテクネーが創発されつつある(「私」という場に、「歩く」という出来事・技術が到来しつつある)時の感触なのではないか。
●私が歩いているのに、「私」が歩いているわけではない。話はずれるが、この奇妙な感触を強く惹起されるのが、小島信夫の小説だ。例えば、「馬」の冒頭の二つの文。これを読むとなにかすごく「ぞわぞわ」する。あるいは、まだ階段がつづくと思って一歩を出したのに、もう足は地面についていた時のような、私から「私」がずれてゆく感じがする。とにかく、落ち着かない感じになる。
《僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた。僕の家にこんな躓くはずのものは今朝出がけにはなかった。》(「馬」)
最初の文はあきらかに「僕は」に違和感がある。「僕は」が省略されるか、あるいは「くらがりの石段をのぼってきた僕は何か堅い…」となれば違和感はなくなる。いきなり「は」によって強く提示される「僕」が、くらがりの石段を上ってくる時間(僕は…のぼって)と、堅いかたまりに躓く時間(僕は…よろけた)の両方にかかっていて、時間がずれこんでゆく感じがするから違和感があるのだろうか。石段をのぼっている時の「僕」は、堅いかたまりに躓くことなど予想もしていなかったはずなのに、その非連続的な出来事を「僕は」の強さが跨ぎ、飛び越えてしまっている。あるいは、家に帰るために石段をのぼるという日常的な動作は、「僕は」と改めて自分を強く提示するほどの自意識を生じさせるとは思えないのに(通常は、躓くという予想外の出来事や痛みによって、「僕」という存在が自分自身にとって前景化すると思われるから「くらがりの石段をのぼってきた僕は何か堅い…」という文には違和感がないのだと思う)、それより前から既に「僕」が強く前景化していることが不気味なのだろうか。
あるいは、「くらがりの石段をのぼってくると何か堅い塊があり、それに躓いて向脛を打ってよろけた」となるべき「二つの時間」が一つに圧縮された上に、それを無理やりにひとつの場所に押し込むかのように「僕は」という強い自己呈示があるから違和感を覚えるのだろうか。向脛を打ってよろけたことの「いきなりさ」を出すのならば、「僕はくらがりの石段で何か堅いかたまりに…」という風に「のぼって」という動作(その時間)を省略するのが普通だと思うのだが、わざわさ「のぼって」という動作が書かれていることで、「僕は」と強く提示されたある起点(「僕」の現在?)が、どうしても二つの位置(石段をのぼる「僕」と、堅いものに躓く「僕」)にぶれてしまうように感じられる。だからこそ、この文の、僕が僕からズレ込んでつんのめるような感じが出るのだと思われる。僕がよろけるだけでなく、文自身がつんのめっている。
そして二つめの文。ここでは「躓くはずのもの」という表現があきらかに変だ。通常は「躓くようなもの」であるはずで、躓くようなものは、今朝にはなかった「はず」である、となるのが普通だと思う。本来、文末に近い場所にあるはずの「はず」が、あせったように前のめりに現れて、「躓くようなもの」を「躓くはずのもの」へと変化させてしまう。ここでもまた、文のリズムがつんのめるようになる。リズムの乱れが、出来事の予想外さ、不気味さを出現させる。また、「躓くはず」という言い方は、まるで「僕」がここで躓くことが前もって決まっていたことであるかのようなニュアンスも生む。それは予想外であると同時に、既に決まっていた動かせないことだ、とでもいうような不気味さ。
このように、冒頭のたった二つの文だけで、「馬」という小説のもつ不気味さが既に準備されている、というか、既に全開になっているのだが、この不気味な感触と、多田富雄がリハビリによって発見した、巨人のように不器用な「彼」の感触はとても近いように思われる。
それは、この不気味さが、「意味」ではなく、あらたなリズム、あらたなハビトゥス、あらたなテクネーが自己生成され、生まれつつある「場」のもつ感触に近いということではないだろうか。つまりここに示されているのは、神経系→テクネーという通路だけでなく、シニフィアン→意味→テクネーという通路もあり得る、ということではないだろうか。
●あるいは、もっと分かり易くスポーツというものを考えるなら、それは神経回路としての身体の精度(まさに運動神経)が問題になるのと同時に、言語体系(歴史、ルール、プレースタイル)として構成された身体も問題となる。例えばフォームやプレースタイルはテクネーであり、準自律系でオートポイエーシス的なシステムに近く、それらは神経系としての身体に基盤を置きつつ、競技の形式に最適化されるように実戦やエクササイズ等によって(おのずと)創発される。神経系が閉じたシステムである以上、こちらは理屈抜きに「出来る奴には出来る(分かる奴には分かる)」という才能の世界でもあろう。
一方、ルールや勝ち負けを決める評価の基準、モード的な意味でのプレースタイル、エクササイズの手法の変化、チーム内での自らの役割、社会のなかでのその競技の位置づけ、他の選手とのライバル関係などは、準開放系でシニフィアン的なシステムの近くにあり、それは歴史的、社会的、政治的、チーム的事情に開かれており、つまり諸事情に大きく左右されながら(原理的には果てしなく)書き換えられてゆく。
競技そのもの、実戦そのものは、その中間に、この二つを架橋する(架橋しつつ、分離させる)ようなものとして現れるだろう。