●新宿のphotographers' galleryで、組立準備企画の佐藤雄一×松浦寿夫対談。
最初に、「組立」所収の佐藤さんのテキスト「さらに物質的なラオコーンにむけて」を読んでない人のために本人からその要約を…、という話だったが、その要約が「波」や「量子」の話などが付け加えられて増殖し、要約というより元テキストのバージョンアップ版という感じになったのが面白かった。佐藤さんのテキストはもともと、松浦さんが、村山知義の作品の「壊された」のに「壊れていない」感じについて書いたテキストに刺激されたものだということだったけど、佐藤さんの話が、エクササイズによって新たなリズムやハビトゥスを創り出すことに重点が置かれていたのに対し、松浦さんの話は、(佐藤さんが刺激されたというそのテキストの主題に近く)そこで生み出された新たなリズムが、どのように「保存」されるのかとか、そこで生み出されたものの「壊されなさ」とかに重点が置かれているという対比も面白かった(壊されたのに、壊されない、分割してもなお「一」である、あるいは、欠損によってより強く「一(全体性)」が感じられる、というのは、きわめて精神分析的な主題でもあると思うが、そのことと、自転車に乗れるようになる、という出来事(技術)が、時間の経過や加齢による身体変化があってもなお「保存される」という事実とは、どのように関係し、どのように無関係なのだろうか、精神分析オートポイエーシス?)。
●あなたとわたしの関係のなかから、その「関係」に還元されない新たなリズムを作り出すという佐藤さんの話で出てくる「あなたとわたしの関係」とは、佐藤さんのイメージではエクササイズであると同時にストリートファイトのようなものであるようだった。ならず者たちが街でケンカをする時、そのケンカの公正性が成り立つような最低限のルールやフォーマットだけは集団的につくり、あとは勝手に街のあちこちで散発的にケンカ(エクササイズ)が繰り返されるうちに、街のならず者たち(特定の環境)の「外」でも通用するような、とんでもない強者や予想もつかなかった戦法が生み出される(に、ちがいない)、みたいな感じだろうか。(宗教的なビリーズブートキャンプとしてのヨヲラとか)
佐藤さんの話が面白いのは、コンテンツ指向でもコミュニケーション指向でもなく、その両者を循環的に繋ぐものであり、そして、わたしとあなたの「関係」に拘泥するのでもなく、関係を切断する第三項(超越性)を関係の外から持ってくるのでもなく、「関係」のなかから「第三項」を(あるいは第三項を変化させる契機を)たちあげようとするものである、というところだと思う。それによって、個(深さ・特異点)-関係(水平的ネットワーク)-第三項(垂直的超越性)の間に循環的な通路が通じる。そして、それを可能にするのが媒介としてのリズムだということになる。媒介とは、連続性と非連続性を同居させるものであり、リズムとは、規則性と不規則性を同居させるものである、と。
●あと、詩と絵画の対立図式を、佐藤さんは「物質なき形」と「形なき物質」という図式として読んでいるけど、それはたんに語と像の対立ということとも言えるのではないかという疑義が、最後に松浦さんから出された。これはまた、今日の話とは別の主題だと思うけど、語と像の対立というとシンプルなようだけど、一体、言葉とイメージはどのように違うのかということは、改めて考えなければならないことであるように思う。言葉とイメージって、本当にそんなに違うものなのだろうか。イメージはどの程度言葉であり、言葉はどの程度イメージなのだろうか、とか(作品が、壊されたのに、壊れていない、分割されてもなお「一」である、というのは、作品がイメージであると同時に言葉でもある、ということではないだろうか)。
●以下は、今日の話に刺激されてのものであるけど、直接関係があるわけではない、きわめて雑で大ざっぱな話。
精神分析(シニフィアンシステム)に対置するものとして身体や感覚を置くのは間違っている。おそらく、人間においては身体も感覚もシニフィアンで出来ているから。そうではなく、精神分析的に記述された人間に対置されるのは、神経(神経系)的な意味での人間だろう。そして、神経系的に人間を記述するのは、医学的言説でも解剖学的言説でもなく、おそらくオートポイエーシス論のようなものだろう。
斎藤環は、精神分析オートポイエーシス論という相容れない(同時に成立することが不可能な)二種類の言説/システムが、「顔」という媒介によって接合され、双方が相容れないまま二つの間で何かが往還するというヴィジョンをたてた(『文脈病』)。これは重要なヴィジョンであると思われる。
しかし、二つのシステムの媒介が「顔」であることは本当に適当であるのだろうかという疑問がある。この二つのシステムを媒介するのは、拍動、リズム、のようなものと考えた方が適当なのではないだろうか。あるリズムが固有性をもつことを通じて、神経系的なパルスが自律的システムや意味の固有性へと変質してゆく、とか。振動がリズムとなり、リズムが音楽(テクネー・オートポイエーシス)となり、また言葉(意味・精神分析)となる、という連続/非連続性(ここには、異なるシステム/位相への変成-ねじれがあるので、これを連続性としてみてはいけないと思う、というか、媒介とはつまり、連続性と非連続性の同居ということなのだ)。
リズムは、テクネー(例えば自転車に乗れるようになること)と意味(シニフィアンの連鎖)とに分岐することによって、自己生成的過程と精神分析的過程を架橋する。こんな見立てはあまりに稚拙というか拙速であろうか。
この、リズム-媒介ということを考える時、佐藤雄一の言う「固有値としての支持体」という考えが非常に重要な導きの糸となるように思われる。