●二人称の思考というものがある。たとえば次の例のような。
《ミクロな視点では連続的に運動し、マクロな視点では或る時点で不連続が見出される。このとき、我々は創発概念を見出すことになる。ならば創発二重基準の創りだす幻想に過ぎず、基本的にミクロな描像に還元されてしまう。そうならないためには、ミクロとマクロを用意し、両者が異なる視点でありながら、その境界を不明瞭とする装置が必要となる。》(『生命壱号』郡司ペギオ-幸夫)。
もし、マクロがミクロに還元されてしまえば(一人称)、創発という「出来事」は消えてしまい、二つの階層をはじめから分離してしまえば(三人称)、創発という「幽霊」がどこから現れるのかわからなくなる。あらかじめミクロとマクロの階層構造があるのではなく、マクロがミクロに還元されるのでもなく、ミクロとマクロを、連続させたまま(一人称)で階層化(三人称)する時に必要な、メビウスの輪の「ねじれ」のような境界(おそらくここが二人称)があり、それによって「創発」という概念が可能になる。
マクロとミクロ、タイプとトークン、客観と主観という「階層構造」において、両項が連続的でありながらも分離(階層化)される「ねじれ(否定的な媒介)」の境界は、「あなた」としてこの世界にあらわれる。「あなた」は、具体的な他者-個物であると同時に世界-普遍(のモデル)であり、あるいは、「あなた」は、他者であると同時にわたし(のモデル)でもある。世界(普遍)とわたし(個物)は、「あなた」を通して繋がり(一人称化され)、「あなた」を通して分離・階層化(三人称化)される。「あなた」は、半ば「わたし」(の同類)であるからこそ「あなた」であり、半ば「他者」であるから「あなた」である。新たに出会う「あなた」は、半ば既知であるからこそ(Bでも、▽でも、スイカでもなく)「あなた(普遍)」であるのだし、しかし半ば未知であるからこそ今日の「あなた(個物)」である。新たな「あなた(個物)」に出会うたび、わたしの「あなた(普遍)」は変化してゆく。
「わたし」としての「あなた」と「他者」としての「あなた」が完全には分離できない(識別不可能な領域がある)からこそ、わたしと他者との分離が動的に維持され、「個物」としての「あなた」と「普遍」としての「あなた」が完全には分離出来ないからこそ、個物と普遍との階層化が動的に維持される。
おそらく精神分析(の、特に実践)は、二人称の思考にもとづいている。しかし、理論化の最初の段階で、「母子未分化(一人称)」状態と、「父によるその切断(三人称)」を分けてしまったことが問題であったのではないだろうか。それは両方合わせて「ひとつのねじれ(否定的な媒介)」としての「あなた」(二人称)の現れなのではないか。象徴界(去勢)と想像界(鏡像段階)は、ひとつのねじれの二つの効果なのではないか。そう考えると、ウィニコットによる、(良い母でも悪い母でもない)「ほどよく良い母」(二人称)によって子供が世界へと媒介されるという考えは重要であるように感じられる。
中沢新一の「対称性の思考」もまた、このような二人称の思考として捉えないと間違ってしまう気がする。そこで「自然」と「文化(人間)」が対称的であると言われるとき、それは、マクロとミクロ、タイプとトークンとが「対称的」であると言うときと同様に、「階層的」かつ「対称的」なのであって、間にメビウスの輪の「ねじれ(否定的な媒介)」が入っているのだと思われる。そういう風にみないと、素朴なアニミズムとかわらないようにみえてしまう。というか、そもそもアニミズムは素朴なものなどではまったくない、ということが言いたいのだろうけど。
●というわけで、何度か試みて読み切れなかった『生命壱号』に改めて挑戦したいと思った。