●雨の中、DVDを返すついでに立ち寄ったけど、近所の本屋には「現代思想」はやはり置いていなかった。
●『生命記号論』(ジェスパー・ホフマイヤー)の「訳者あとがき」で松野孝一郎が書いていることから引用。内部観測における提示(表現)について。これはとても重要である気がする。
≪相互作用し合う二つの物体の間で進行する内部観測では一方が他方を同定するとすることを行うが、この同定が両者で同期しているとする保証はない。この二つの物体をA、Bとしたとき、AはBから提示されたもの(作用)を被験し、それを被験することによってAは自らを何かの仕方で変換する。更に、その変換されたものをBに提示する。Bについても同様である。この内部観測を担う相互作用は、被験、変換、提示という三つの過程から成り立っているのが判る。この三つの過程のうち特異なのは、提示過程である。提示されるのはそれに先行する変換過程からの結果、変換されたものであるが、提示を行っている間、その変換されたものは不変に留まる。変換されたものは、しばしの間、表現としてそこに留まる。ただし、この内部観測に由来する表現、内部観測が不変に留まるのは、相互作用の進行によって内部表現が新たに更新されるまでの間でしかない。BがAに影響を及ぼすことによってAは変わる。そのAの変化がBに提示されBが変化する。そのBの変化がAに及ぼされると、Aはそれを新たに被験、変換して、その結果を再びBに提示する。(…)内部記述は、しばしの間、内部表現に投錨することによってつかの間ではあるが、記述不変/普遍性を獲得する。しかも内部表現の更新を介して、変化、進化にも対応し得る仕組みを獲得する。≫
●このような一時的不変によって内部表現=提示を行う記号のことを、デジタル記号とすると、デジタル記号の例としてDNAが挙げられる。
≪ホフマイヤーは内部観測に関わる三つの過程、被験、変換、提示の内、提示を担う内部表現のことをデジタル記号と呼び、それ以外の部分をアナログ記号と総称した。パースの記号論に接続させるため、敢えてこの様な呼び方を採用した。ここでの記述は外部記述ではなくあくまで内部記述である。内部表現、デジタル記号の代表例は生物の遺伝子を構成するDNAである。≫
≪「DNAそれ自体だけでは何もしない」不活性な受け身の物体である、というのはむしろDNAにとって最大の賛辞にこそなれ、決しておとしめにはならない。DNAのおかげで内部表現が可能となり、それに基づき内部記述という記述が可能となってゆく。≫
●つまり、DNAという不活性な、フィックスされた表現形-対象(デジタル記号)があるからこそ、Aの被験-変換とBの被験-変換が媒介され、相互作用する系(変化し、進化する動的過程)が可能になる。そして、DNAと同様の、内部観測の過程におけるフィクスされた「提示」の例として、松野は「学術論文」を挙げている。論文は本来、外部記述として書かれるものの最右翼ではあるが、しかしそれでも、非規定名辞を含む外部記述は内部記述となり得るのだ、と。
≪この論文はあくまで外部記述の典型である。これを発表媒体としての専門誌に投稿する。しかもこの専門誌が同業の研究者より信頼されている限り、その編集長は投稿されてきた論文を仲間内から信頼されている別の研究者にそれの査読を依頼する。この査読の過程でなされるのは、投稿された論文が果たして不変/普遍な対象の外部記述になっているのか、の検査である。この検査に無条件で合格する論文はまずない。殆ど例外なく、査読者からは書き直し、修正の注文がついてくる。この注文に応じ、修正された論文が実際に印刷発行され、公開され、研究者仲間にとっての共通の共有財産となって行く。だが、その手続きによってこの修正論文が不変/普遍な対象にとっても外部記述になったとする保証は何もない。査読者が別人であれば、当然のことながら要請される修正も変わって行くはずである。それ以上に、公表される論文にとってその価値を定めるのは、それが新たにどれほどの研究を誘発するか、である。(…)他の研究者によって引用される頻度の高い論文ほどその論文の中に魅力ある不定さ、能産的な非規定さが含まれていることを示す。これが非規定名辞を含む外部記述としての誰しもが目指す研究論文である。≫
●つまり論文は、非規定名辞を含まない閉じた外部記述であることを目指して書かれるが、しかしそこには不可避的に非規定名辞が含まれてしまう。だけど実は、その非規定さこそが、新たな研究を誘発する能産性となっているのだ、と。論文という「それ自体では何もしない」不活性で受け身な提示(表現)が、あなたとわたしの間にあることで、それが含む自己否定としての(本来、穴でありネガティブな要素であるはずの)「非規定さに」よって、相手の内に能動性を植え付けることが可能である。こうして書いてくると、これが13日に引用した郡司ペギオの発言ととても近いことに気付く。メタレベルのメタレベル(大文字の他者大文字の他者)は存在しないが、そのような支えが無いことによって(原理的に「ない」にもかかわらず「ある」かのようにふるまうことによって)我々は、相互性において能産的(動的)であり得る。わたしにおいて必然的に内包される穴(虚)が、あなたの内において実として転生する、というような、間にねじれを挟んだ二人称的関係が成立する、と。ああそうか、これが「仏陀の微笑」ということなのか。
●そしておそらく、そのような二人称的関係こそが「生命」なのだと、ここでは言いたいのだと思われる。
≪内部記述が表しているのは、矛盾を否定しながら絶えず新たに否定される矛盾を作り続けるとするその運動そのものである。≫
≪内部記述にとって肝腎なのは否定の否定を繰り返すことによって積極的な肯定を跡に残して行く運動は一体どれだけ持続可能なのか、との具体的問いかけである。少なくともこの地球上に出現した生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記述されつづけて来た対象であった。≫